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てのひら無双 ~精霊に愛された人形師ときゃわわぬいぐるみ~  作者: 鮪野登呂介
港町エルミナ編

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お嬢様、ご乱心!?

セレナ登場回です。実行力がバグっている令嬢を書きたかったんですよねー。病弱なのに決断だけ誰より速い、それがセレナです。

その日、エルミナには珍しく、一台の大きな馬車が港から大通りに入ってきた。


紋章入りの錠、御者台に二人の従者、窓には薄紫のカーテン。船便でやってきた貴族の一行らしく、通りかかった商人たちが少し足を止めて眺めていた。


楓はその馬車に全く気づいていなかった。


今日は午前中から仕事が詰まっていた。子どもからの追加注文が三件、それにドワンから「同じ商仲間に紹介したい」という話も来ていて、材料の計算をしながら次の一体の構想も練らなければならない。しろが膝の上で丸まって、ぽぽが何度も話しかけようとするのをくまが無言でブロックしていた。くまはこういうとき頼りになる。ぽぽは不満そうに楓の肩に移動した。


「カエデ、馬車」とルーチェが言った。


「どこ」


「止まった。私たちの家の前」


顔を上げると、確かに紋章入りの馬車が花屋の前で停まっていた。御者が降りて、錠を開ける。出てきたのは、楓より少し年下に見える女性だった。


淡い金髪で、肌が白くて、気品のあるたたずまいだったが顔色が少し悪かった。それでも一目見ただけで美しい女性だとわかる、見るからに「庶民ではない」という空気があった。後ろから侍女が二人、日傘を持って続く。


女性は花屋の看板を見て、それから花屋の横の柱に括り付けてある楓の看板を見た。


「……人形師」


声が届いた。顔色に似つかない凛としたよく通る声だった。


「はい」と楓は答えた。「私です」


女性が楓を見た。楓を見て、それから楓の膝の上のしろを見て、肩のぽぽを見て、テーブルの上のくまを見た。


くまと目が合った瞬間、女性の表情が動いた。


---


「……それは、なんですか」


女性が近づいてきた。侍女が「お嬢様、足元に」と言ったが、女性は聞いていないようだった。テーブルの前まで来て、くまをじっと見た。くまはそのまま、ゆっくりと女性の方を向き「よっ」とあいさつするように手を挙げた。


女性が小さく息を吞んだ。


「動いた」


「動きますねぇ」


「……精霊が、宿っているのですか」


「宿っていますよ。これは……たぶん、なんていうか宿りやすい体質なんだと思います。私が」


我ながらふわっとした説明だ、と思ったが、女性は「そうですか」と言って、それ以上問い詰めなかった。代わりにくまを指差した。


「触れても?」


「どうぞ」


女性が両手でくまを持ち上げた。くまが少し首を傾けた。ゆっくりとした動きだった。しろのような静けさとも、ぽぽのような騒がしさとも違う。落ち着いた、どっしりした動き方だった。


侍女が「お嬢様」と小声で呼んだ。女性は「大丈夫」と返した。「少しだけ」


くまの目が、ほんのりと温かい色に光っていた。


女性が顔を上げた。


「……これを、屋敷に持ち帰りたい。毎晩傍に置いておけたら、もう少し楽に眠れる気がします」


楓は少し考えた。


一つ、確認しておきたいことがあった。


「セレナさんの屋敷は、どのあたりですか」


「船でさらに五日ほどのアルウィン領です。王都から少し離れた場所に」


「……そこは、エルミナからかなり遠いですね」


「ええ。ですが――」


「しろのことを聞いてもいいですか」と楓は言って、膝の上のしろを示した。「しろはずっと私のそばにいます。でも、私から離れると――試したことがあって、かなり遠くまで行くと、動かなくなるんです」


セレナが楓を見た。「動かなくなる?」


「はい。精霊が、私から離れすぎると――戻ってくるのか、眠るのか、ただのぬいぐるみみたいになります。どのくらいの距離かはっきりわかりませんが、街の端くらいまでは大丈夫で、それ以上遠くなると……」


楓は言葉を選んだ。


「……くまも、たぶん同じだと思います。私の近くにいる間は動いて、温かくて。でも遠くに持っていったら――」


「動かなくなる」


「おそらく」


セレナがしばらく黙った。くまを見た。くまは相変わらずどっしりと、セレナの手の中に座っていた。


侍女が「お嬢様、お体に」と小声で言った。セレナは「わかっています」と返して、くまをそっとテーブルに戻した。


「……残念ですね」


静かに言った。がっかりしているのか、諦めているのかわからない。ただ事実を確認したような声だった。


「申し訳ありません」


「いいえ。あなたは正直に言ってくれた。それで十分です」


セレナが立ち上がった。侍女が日傘を差し出す。


「また機会があれば」とセレナは言って、馬車の方に歩き始めた。颯爽と、でもどこかほっとしたような、いや、何かを考えているような背中だった。


楓はルーチェと顔を見合わせた。


「……なんか、すごい人だったね」とルーチェが言った。


「そうだね」


「お嬢様なのに、全然偉そうじゃなかった」


「うん」


「決めるの早かったし」


「速すぎた。私がまだ言い終わってないのに」


ルーチェが笑った。「カエデ、友達の幅広すぎ」


「またその話」


ぽぽが楓の肩から「ぽっ!」と意見を述べた。何の意見かはわからなかったが、肯定っぽかった。しろは膝の上で目を閉じていた。くまはテーブルの上で、さっきと同じ方向を向いていた。


セレナが去っていった方角を。


---


問題が起きたのは、夕方だった。


馬車が、戻ってきた。


楓がお茶を飲みながらルーチェと他愛ない話をしていたところに、あの紋章入りの馬車が再び花屋の前に停まった。


今度は荷物が多かった。大きなトランクが二つ、箱が三つ、それと侍女が一人減っていた。


セレナが降りてきた。


さっきより少し顔色がよかった。というか、何かを決めた人間の顔をしていた。


「……決めました」


開口一番、そう言った。


「この町に住むことにします!」


楓は固まった。


「え」


「港からこの町まで定期船がありますので。船旅は体に堪えますが、月に一度なら耐えられますわ。あとは屋敷の者たちに任せれば問題ありません。幸い父はうるさく言わない性質ですし」


「ちょ、ちょっと待ってください」


「何でしょう?」


あら何か問題でも?というような顔をしている。


「今日、初めてお会いしましたよね」


「ええ」


「それで、住む……?」


セレナが少し首を傾けた。まるで「それが何か問題ですか」と言っているようだった。


「さっきあなたが言ったでしょう。あなたの近くにいる間は動いて、温かい、と。でしたら私があなたの近くにいればいいだけです」


「そ、そうですけど」


「簡単じゃないものを簡単に決めるのが、貴族の得意なことですと言いました」


「そんなこと言いましたっけ」


「言いませんでしたが、そういう意味でした」


ルーチェが盛大に吹き出した。楓は頭を抱えそうになりながらも、なぜかセレナの顔が笑いをこらえているように見えて、それでまた困った。


「……どこに住まれるんですか」


「港の近くに宿を取りました。長期で。屋敷の者が手配してくれています」


「はや」


「ゆっくり考えるのが得意ではないので」


「……わかりました」


楓は観念した。観念しながら、くまを手に取って、セレナに差し出した。


「では、改めて。くまちゃんのつきです」


セレナが受け取った。くまがゆっくりと首を傾けた。


「つき、と言うのですね」


「名前です。私の故郷には額につきのマークがあるくまちゃんがいるんです」


「……それだけですか」


「それだけです」


セレナがもう一度だけ、小さく笑った。侍女が「お嬢様、お体が」と言ったが、今度も聞いていなかった。


つきの目が、ほんのりと光った。

「簡単じゃないものを簡単に決めるのが得意」と言いませんでしたが、そういう意味でした、というセレナのセリフ、書いてて一番好きになりました。くまがじわじわ存在感を出してきます。次回もお楽しみに!

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