死に際にも推しが見たかった
本日から最強スローライフを書いていきます!ぬいぐるみに囲まれて暮らすんだい!
今日も最悪だった。
山田楓、二十八歳、独身、彼氏なし、貯金は月末になると毎回ひっ迫する。肩書きはいちおう「一般事務職」だが、実態はといえばコピー機の専属守護神兼、上司の機嫌バロメーターである。
機嫌がいい日はただ「楓ちゃん、これよろしく」で済む。
機嫌が悪い日は「楓ちゃん、これまだ終わってないの?」になる。
そして今日みたいに特大に機嫌が悪い日は「楓ちゃんてほんとトロいよね、ハハ」になる。
最後の「ハハ」が一番しんどい。笑うな。笑いながら言うな。そのトーンで言ったら全部傷つくじゃないか、と声を大にして言いたいところだが、楓はぐっと堪えた。波風を立てるのが何より苦手なのだ。代わりにコピー機のスタートボタンを少しだけ強めに押した。コピー機はぴっ、と鳴いた。かわいそうに。
残業が終わったのは二十三時を回ったころだった。
夜のオフィスビルを出ると、秋の夜気がするりと首筋に滑り込んできた。思わず肩をすくめる。外は静かで、遠くで車が走る音だけが聞こえた。昼間のあの息苦しい空気が嘘みたいに、夜の街はどこかひんやりと穏やかだった。
楓はコートのポケットからスマホを取り出した。
通知が一件。
【 白鳥ましろ、配信開始しました!】
「……っ、始まってる!!」
思わず声が出た。イヤホンを耳に突っ込んで、急いでアプリを開く。画面の中では、ふわふわの白い衣装を着た少女が絶叫していた。
『やだやだやだやだ――っ!!なんでそんなとこから出てくんの!?こっわ!!こっわこっわこっわ!!!』
ホラーゲームの実況だった。画面の端でカーソルが情けなく彷徨い、ましろんが「見たくない見たくない」と言いながらも着実にゲームを進めている。その間抜けな勇敢さが楓には最高にかわいかった。
「ましろんかわい……」
思わずにへらと笑った。さっきまでの「ハハ」のダメージが、みるみる薄れていく。これだから推し活はやめられない。
白鳥ましろ、通称「ましろん」。楓が課金と熱狂を惜しみなく捧げている推しのVtuberである。ふわふわした見た目に反してゲームの腕前はそこそこで、でも怖いゲームになると途端に半泣きになるギャップが最高で、楓はすっかりその沼の深いところに腰を落ち着けていた。
去年の誕生日には自作のましろんぬいぐるみを作った。目はビーズ、ボディはもこもこの白いフリース素材、頭には小さな王冠。自分で言うのもなんだが、かなりの出来栄えで、今も枕元の特等席に鎮座している。
ぬいぐるみを作るのは子供の頃からの趣味だった。うまくいかないことがあるたびに針と糸を持って無心になる。そうすると不思議と、どんなに荒れていた心もするっと凪いでいくのだ。あのトロい発言のダメージだって、今夜帰ったらましろんのぬいぐるみを抱きしめて、明日は新しい素材で何か縫って、そうすれば大体リセットできる。楓の精神安定剤は、推しとぬいぐるみでできていた。
イヤホンの向こうでましろんがまた悲鳴を上げた。
『むりむりむりむり!!お化けが!!お化けがいる!!見えてる!?みんな見えてる!?』
チャット欄が「見えてる」「かわいい」「ましろん頑張れ」で埋まっていく。楓も心の中で「頑張れ」と呟いた。画面の外から念を送る。
アパートへ続く細い路地に入ったところで、楓は自分がかなりへにゃへにゃの笑顔になっていることに気づいた。深夜の路地で一人でニヤついている二十八歳。客観的に見たらだいぶ怪しいが、楓にはどうでもよかった。
幸せだった。
こういう夜があるから、明日もまあ生きていける、という感じがする。推しがいる。ぬいぐるみがある。それだけで、なんとかなる。
そう思った、まさにその瞬間だった。
楓の左足が、何かを踏んだ。
ずる、という感覚。
視界が、急に傾いた。
あ。
体が宙に浮く感覚がして、次の瞬間、後頭部に鈍い衝撃が走った。アスファルトだった。思ったより、ずっと硬かった。
イヤホンの向こうで、ましろんがまた叫んでいる。
『きゃあああ!!出た!!出たーーー!!!』
……コンクリ、冷たい。
それが、山田楓、二十八歳の、最後の感想だった。
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後で検証されたところによると、楓が踏んだのはコンビニ袋の切れ端だったらしい。
秋の夜、深夜の路地、ちょうど街灯の死角。たったそれだけの条件が重なって、山田楓の二十八年の人生はあっけなく幕を下ろした。
近所の人が気づいたのは翌朝だったという。
スマホのイヤホンからは、ずっとましろんの配信が流れ続けていたそうだ。
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目を開けると、星があった。
正確には、星に「囲まれて」いた。
上も下も右も左も、全部星空だった。足元には透明な何かがあって、辛うじて立てないことはないが、どこへ向かえばいいのかまったくわからない。重力は一応あるようで、楓の体は宙に浮いてはいなかった。
「……え?」
楓はきょろきょろと辺りを見回した。寒くない。怖くない。なんか綺麗だな、と思った。
「あれ、私、死んだ?」
言葉にしてみると、びっくりするくらい現実感がなかった。死んだ、と言葉では思っているのに、なんかふわふわしている。これは夢なのか、それとも死後の世界というのはこんなにふわふわしているのか。
「そ〜〜〜の通り!」
どこからともなく、やたら明るい声が降ってきた。
振り返ると、いた。
女性、だった。たぶん。おそらく。
金色の長髪がゆったりと宇宙空間に漂い、白を基調とした衣装がどこからか差し込む光を反射してきらきらと輝いている。顔は、整っていた。非常に整っていた。口元には人の好さそうな笑みが浮かんでいて、全体的に「神様」という雰囲気が出ていた。
ただし、一番目を引くのはそこではなかった。
……胸、でかすぎる。
物理法則への公開挑戦状、と呼ぶべきシルエットだった。この宇宙空間に重力はあるのか? あったとして、なぜその部分だけそんなに影響を受けていないのか? 楓は思わず自分の胸元を見下ろして、しみじみと傷ついた。
「えーとですね!」
女神らしき存在は、にこにこしながらどこからともなく巻物を取り出した。くるくると広げると、そこには細かい文字がびっしりと並んでいた。
「山田楓さん、二十八歳、会社員!お仕事の内容は……コピー機の守護神兼上司のサンドバッグ係!趣味はぬいぐるみ作りと推し活!合ってる?」
「……合ってますけど、仕事の説明がだいぶ失礼ですね」
「事実じゃない?」
否定できなかった。
「でですね!」
女神がぱんっと手を叩くと、周囲の星がぱあっと輝きを増した。どこからともなく明るい音楽が流れ出す。ファンファーレ、というやつだろうか。
「本日、楓さんは記念すべき……えーと、すごくいっぱいの、ゼロがたくさんついた人数番目の死者となりました! おめでとうございます!!」
「おめでとうって言われても……」
「というわけで! 特別に転生権をプレゼントしちゃいます! ぱんぱかぱーん!!」
また星がキラキラした。楓は数秒、無言でその輝きを眺めた。
「……転生って、あの転生ですか。異世界に生まれ変わる、みたいな」
「そ! 魔法もあるし剣もあるし、ドラゴンもいる世界よ! あ、言語は向こうに着いたら自然とわかるようにしといたげる。それくらいはサービス!」
「……ちなみに、チートとか特典とかは」
「スキルを一個だけ選ばせてしんぜよう!」
女神がひらりと腕を振ると、空中にずらりとスキルの一覧が光の文字で浮かび上がった。『剣聖の才能』『魔法の天才』『全言語理解』『神速』『金運覚醒』……どれも、小説で見たことがあるような強力なスキルが並んでいる。
楓はしばらくそれを眺めた。
眺めて、眺めて。
「……『精霊親和』ってなんですか、これ」
一覧の端っこの方にひっそり書いてある、地味なやつを指差した。
女神の表情が、少しだけ固まった。
「……え、それ?」
「気になって」
「精霊に好かれやすくなる、ってやつだよ? 戦闘力が上がるとか魔法が使えるとか、そういうのじゃなくて」
「精霊って、どんな感じの子たちですか」
「えーとね、自然界に宿る存在で、人にはあんまり見えなくて、気まぐれで、でも力は強くて……」
「かわいいですか」
「……かわいいけど」
「選びます」
「ほんとに? 剣聖とかの方がどう考えても便利だよ?」
「かわいいなら精霊でいいです」
女神は数秒黙った。それから「まあ、いっか」と呟いて、にっこりと笑った。
「じゃあ決まり! いってらっしゃい、楓ちゃん! あの世界で楽しんでね!」
「あ、一つだけ聞いていいですか」
「なに?」
「異世界にも、Vtuberっていますか」
女神の顔に、心なしか哀れみの色が浮かんだ。
「……ないと思う」
「そうですか」
それが地味に一番しんどかった。
光が視界を包んで、楓の意識は遠くなった。夢の中で、ましろんの声が聞こえた気がした。
『みんな〜、今日も来てくれてありがと〜! またね〜!』
またね、とは言えなかったけれど。まあ、しょうがない。
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ひとり残された星空の中で、女神——アルテミアは巻物を丸め直した。
「いやー、まさか精霊親和を選ぶ子がいるとは思わなかったわ〜」
くるくると空中を漂いながら、独り言をこぼす。
「まあでも、変な子の方が面白いもんね。うまくやっていけるといいけど」
ぱちん、と指を鳴らすと巻物が消えた。仕事完了。次の担当は明後日だったか来週だったか。アルテミアはそんなことを考えながら、星空の中をゆっくりと漂い始めた。
そしてふと、立ち止まった。
「……あ」
なんか、言い忘れてた気がする。
なんだっけ。えーと。
「……あーーー!!」
思い出した。
精霊親和を選んだ楓に、伝えるべき補足事項があったのだ。というか、選ぶ前に言っておくべきだったかもしれない情報が。
「あの子、なんか精霊ちゃんたちにめちゃくちゃ好かれてたのよね、もともと……!」
もとから規格外の精霊親和体質を持っていた楓が、さらに「精霊親和」スキルまで選んでしまったという事実を、アルテミアはたった今思い出した。
転生はもう完了している。
「……まあ、いっか!」
アルテミアは明るく言い放って、星空の向こうに消えていった。
誰もいなくなった空間で、星だけがきらきらと瞬いていた。
精霊親和...いったい何が起こるっていうんですか...




