第七十二話 生命(いのち)の風
ドームを背にして進むにつれ、人工物の気配は消え、目に映る世界は濃密な緑に飲み込まれていった。
「……すごいな。ドームの中の植物園とは、空気の質が全然違う」
カイエンがスーツのフィルター越しではなく、木々が呼吸を続ける空気を同じように深く吸い込む。
湿った土と、むせ返るような草の青臭い匂い。かつて感じた外界……あの未知への不安と高揚が、より強烈な実感となって蘇ってきた。
その隣で、アクアが弾けるように飛び上がり、空中移動を始めた。
「カイエン、見て! あっちにも、こっちにも生命が溢れているわ!」
彼女は眩い光を反射させながら、鬱蒼と茂る巨木の間を、目にも止まらぬ速さで縦横無尽に飛び回る。
保護スーツのおかげで、重力さえ無視したその動きは……まるで緑の海を泳ぐ魚のようだった。
ドームという狭い中に閉じ込められていた反動なのか、その動きはいつになく大胆に見える。
カイエンは、嬉しそうに空中を飛び回るアクアの姿を見失わないようにと目で追う。
ふと、アクアが1本の木の前で静止した。
「あの、誰か……いますか?」
アクアが何かを見つけて、ゆっくりと枝の方に近づく。
「ピョ……ピッ……ピッ」
彼女は精一杯の親愛を込め、身体をそっと近づけながら、柔らかな振動波で話しかけた。
「……こんにちは。あなたは、この森で何を見ているの?」
しかし、枝先に止まる小鳥は、何の反応も示さず、首を傾げることさえしなかった。
やはり、アクアの存在は、地上を生きる動物たちにも認識出来ないようだ。
はたして、目の前を横切った淡い光と何かの気配を感じたのか、どうか……。
小鳥は、休憩が終わったのか、すぐに空へと飛び去ってしまった。
「……やっぱり、ダメなのね」
カイエンの元へ戻ってきたアクアの顔が、少しだけ曇る。
「私の声は、彼らには聞こえない、姿も見えないのよね。あるいは……何も存在しないのと同じなのかもしれない。認識さえ、してもらえないのだから」
カイエンは足を止め、寂しげに笑う彼女を見上げた。
「……俺には見えるし、声も聞こえる。それで十分じゃないか?」
「カイエン……。ええ、そうね。ありがとう」
二人のやり取りを聴きに来たかのように、頭上の葉を揺らしながら、爽やかな風が通り過ぎていった。
だが突然、ドーム内では決してあり得なかった……本物の突風が森を駆け抜けた。
カイエンは、初めて予測不能な自然の洗礼に身を竦ませる。
知らず識らずのうちに、コントロールされた調和が自然だ……と、思い込んでいた事を再確認していた。
クロノスが指し示した座標は、この深い森のさらに奥にあるようだ。
そこには、アクアという存在と意味……に繋がる何かが待っているのだろうか。




