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昨夜、ジンに押し込められる様に布団に潜り込んだ時には、今夜は眠れないかもと思っていたエルだったが、朝起きると顔も浮腫んでおらず普段通り元気に体が動く事で、自分がちゃんと眠れた事が分かった。
気持ちこそは落ち着かないままだが、仕事でゴードンに迷惑かけずに済みそうだと思うとホッとした。
食堂の外はまだ薄暗いが、それでも開かれたカーテンの向こう側から日差しが差し込み始めていて、今日も良い天気になりそうだ。
でも今…いつもより1時間以上早い時間かな?
いつも起きるよりも随分早い時間に起こされた事に不思議に思っていると、ケリー先生の葬式のせいで、いつもの様にドーンが馬車でエルを役場まで送る事ができなくなり、いつの間にかエルは一人で役場まで歩いて行く事になっていた。それで早く起こされたらしい。
モゾモゾとゾーイ婆に出された朝食をエルが平らげていると、そんな説明をされた。
街までエルが歩いても三十分程だ。夕暮れ時に掛かる帰りは誰かが迎えに来てくれるそうだ。それならば何も問題もない。
そう思っていると院長が珍しく食堂に入って来るのが見えた。
その姿が見えただけでエルは自然と体が強張ってしまう。
最悪な事に院長はエルの前の座席に腰掛け、ゾーイ婆に向かって言った。
「おはようございます。私にも朝食をいただけますか?」
これまた珍しく、ここで朝食を摂るらしい。
そして台所の奥に消えるゾーイ婆を見送ると今度はエルに言った。
「それと今少し聞こえたのですが、エルは街に出るのですか?それならば私と一緒に行きましょう。ちょうど色々と手配があるので街に出る予定があるのです」
怖い!
思わぬ提案にエルは上擦った声でいいです!と咄嗟に断ってしまった。
そんな頑ななエルの態度に院長はおや?という顔でエルを見ている。
エルはどうしようどうしようと思いながら、まだ半分以上残っている自分の朝ごはんを突きながら、しどろもどろに断りを続ける。
「あの…私、ちゃんと一人で行けます。あの、院長先生は忙しいと思うので…」
「ああ、それは大丈夫ですよ。ついでに送るだけですからね。同じ方向ですから」
そこまで言われてしまうと、もうエルの知恵では断る術は無かった。
相変わらずエルの頭は恐怖とどうしようという気持ちが渦巻いている。もう食事の味など分かりもしないし、いつの間にか食事以外の物で腹も胸も締め付けられるようにいっぱいになっていて、これ以上食べれそうもない。
マゴマゴしているうちに院長は出された食事を終えて、三十分後に玄関に来る様にとエルに言い言い、食堂を出て行った。
ほぼ手をつけていない目玉焼きを見つめながら、エルが院長が出て行く気配を感じていると、今度はゾーイ婆の声が聞こえる。
「アンタ酷い顔色だよ?なんかあったのかい?」
ゾーイ婆がエルの顔を覗き込んでそう言うが、今朝も起こしにきたジンに誰にも余計な事も余計な話もするなと釘を刺されている。
エルは小さな声で何でもないとだけ言って、食事も残し、まだ心配そうな顔をしているゾーイ婆に遅れるからと言い訳しながら準備の為に部屋に戻った。
院長と出かける前にジンかヘナに相談したいのに、こういう時に限って二人の姿は何処にも無かった。
仕方なくエルがトボトボと時間に玄関に向かうと、既に院長は馬車に乗って待っていた。
慌てて小走りで走り寄り、エルが馬車に乗り込んで入り口近くの座席の一番端っこにそっと座ると、外見は質素な箱馬車だったのだが、思った以上にふわふわとしたクッションの効いた座面に驚いた。
エルが座ったのを確認すると院長は壁をコンコンと二回叩き、それが合図だった様で御者が馬車を出した。
ガタゴトと整備の行き届いていない地面の悪い所を行く馬車はだったが、ドーンの乗る馬車と違って大きく揺れて、体重の軽いエルが跳ね上がる事もない。馬車によってこんなに違いがあるものなのかとエルはしきりに感心した。
ドーンの馬車もゴードンの馬車も、知っている馬車は室内も足を置く所も木目が剥き出しの板張りだったが、この馬車には壁紙も絨毯も隙間なく綺麗に貼られているので、冬に乗ったとしても隙間風で寒い思いをしないで済みそうだ。
そっと馬車の室内を観察をしていたエルに急に院長から声が掛けられた。
「エルは…不自由なく生活できているのですか?」
まさか話しかけられると思っていなかったエルは飛び上がるくらい驚いた。
内装を見ていた目を恐る恐る院長に向けると目が合ってしまい、急いで握りしめた自分の両手に目を逸らした。
「えっと、院の人たちはみんな優しくしてくれます」
「そうですか、それはよかったです」
エルは今では時折外回りに出るが、それまでは全く外に出る事もなく、養護院の中だけで皆ににそれなりに可愛がって育ててもらったと思う。
養護院での生活は、忙しい中にも調和があり、慣れれば時間の流れも単調に感じるほどだった。
だが、外回りに出てみると、自分の育つ環境はかなり特殊であることを何度も思い知った。
幼く、何の後ろ盾も無いエルを良い様に使おうとする人間もいたし、つまらない理由で怒鳴られ暴力を振るわれた事もある。
そんな中でも忘れられないのは、大規模な庭の改修の下働きに行った貴族の家で、作業中にたまたま行き会ってしまったその家のお嬢様に、バカにされた上にあからさまな差別を受けた事だった。
『お母様、あの子はあんなに幼いのに何故お仕事してるのですか?』
『テルマったら!貴女はそんなものを目にしなくて良いのです…もう!だから!今日は平民が入り込んでいるのだから、お庭に出るのをやめようと言ったのですよ』
『だってお母様、女の子なのにあの様に這いつくばって土を触って、服も何故あんなに汚れるまで着てるの?私には全く考えられないわ。髪だってボサボサだしヤダ、臭いもここまで漂ってくるようよ…あの様な汚い格好するくらいなら私、きっと死んだ方がマシだわ』
これは働いているエルのほぼ真横で交わされた貴族親子の会話で、エルはその夜は悲しくて眠れなかったし、それからも大分長い間引きずってしまった。
何故見ず知らずの人間にここまで言われなければならないのか。
エルはただ生きる為に必死に頑張っているだけなのに、それを死んだ方がマシとまで言われてしまった。
もう随分前の事であるのに、半分笑いながらもゴミを見る様な目をしたあの親子の顔も忘れられないし、会話も一言一句思い出せる。
そんな嫌な事よりも、気の良い養護院の人たちの笑顔をなるべく思い出す様にして院長の質問に答えた。
「ちゃんとご飯も食べられるし夜はベッドで寝られるし、何の問題もないです」
「そうですか。先生たちも優しくしてくれますか?」
エルはついピクリと反応してしまった。ケリー先生の顔が浮かんでしまったのだ。
「…はい」
そんなエルの反応に感じるものはあったのか、院長は声を低くした。
「今回、残念な事が起こりましたが、どうやらエルも知っている様ですね」
その低い声は、あの日の応接室での院長とケリー先生のやり取りをハッキリと思い出させた。
怖い…
エルは血の気が引く様な思いをしながらも何とか頷いた。
「ここだけの話ですが…困った事に…実はケリー先生は色々な問題にある先生でしてね。今朝もその後始末に向かう所なんですよ」
耳を疑う様な院長の口から出た言葉に、エルは思わず院長を凝視してしまった。
「ああ、貴女の信じられない気持ちは分かりますよ。表面的には良い先生でしたからね。
私も、もう亡くなった人の…こう言った話をするのは本当に気が引けるのですが。エルは随分とケリー先生に懐いていたそうですからね。ですがあの方はそういう人間だったのです。ですから貴女もあまり悲しみに沈まない様に」
「そんな!」
そんな事はあり得ないと続けたかったが、院長の冷たい目を見たらもうそれ以上は言えなかった。
「良いですね。もう忘れて、先に進みなさい」
ピシャリと話を終わらされたが、どれだけケリー先生が優しかったか、尊敬できる人だったか。
もう口に出すのは許してもらえないであろう院長に伝えたい気持ちは、エルの胸の中だけでぐるぐると渦巻き続けた。




