42*傍流
「今日でね、君にケリガンのマナー講師は辞めてもらう事になったよ」
マインはある日の授業後、侯爵家の執務室に呼ばれたかと思うと、当主に開口一番で宣言された。
亡くなった奥様の招きにより、ジェンダム侯爵家の長女であられるケリガン様のマナー講師としてもう十年ほど勤めさせてもらっていた。
「あの!私に何か不都合がございましたか?」
解雇を告げたそのまま、また仕事に戻ろうとしていた当主のホフマンは、マインの言葉に面倒臭そうに顔を上げた。
「別に何も無い。ただケリガンは皇太子妃として、そしてゆくゆくは皇妃として立つ為に、更なる研鑽が必要となる為、講師を代えるだけだが」
暗にマインでは力不足であると、そう言われてしまうと、マインもそれ以上は何も言えなくなってしまった。
マインは伯爵夫人であったが、子育てが終わり、手が空いたところで知り合いの夫人から子供のマナー講師としてお願いされた事がきっかけとなり、長年この仕事を続けてきていた。
マインの優しい人柄もあってか、今ではその手腕がなかなかの評判となったので引きも切らない人気の講師となっている。
子供たちがデビューを果たし、マインの手を借りずに淑女として独り立ちするまで、それまで導き見守るのが常で、今までそれを途中で断られる事は無かったので、本当にマインは驚いてしまったのだった。
今までご苦労だったの一言だけで執務室から追い出され、マインはきちんと顔を合わせてケリガンと別れる事は出来なかった。
後日、ケリガンに途中で職を辞する事、育て上げる事が出来なかった事を手紙で詫びると、ケリガンからも返事が来た。
先生から真心を教えてもらった事、ずっと教えを忘れない事、またそれを周りに伝えていく事に励むと書いてあった。
それからしばらくマインとケリガンとの文通は細々と続いたが、ある日を境にぷつりと途絶えた。
そして衝撃的なあのニュースだ。
「まさか!まさか…あのケリガン様が!」
新聞が皺だらけになるのも気づかぬくらい、マインは震える手で手元のニュース記事を読み耽る。
何があったのか具体的な経緯は省かれていたが、ケリガンが有責で婚約破棄され、貴族籍も剥奪されたとあった。
必死の思いでマインがの行方を探ると、ケリガンは侯爵家から追い出された後すぐに修道院に預けられた事を知った。
何度か修道院の前まで行ったマインだったが、その門を叩く勇気は湧かなかった。
自分とて、途中でケリガンを見捨ててしまった一人ではないかという自責の念がどうしても拭えなかったのだ。今更声を掛けても、ケリガンにどう思われてしまうのか。
気にはなっていたがズルズルと今日まで来てしまった。
そのケリガンの久しぶりの噂を、マインはまさかの場所で聞く事になった。
公爵家の一人娘であるフェリーチェの教育係として呼ばれたのはかなり急な話であった。
普通は打診から始まって何段階にも招聘までステップを踏むが、公爵はかなり急いでいる様で説明の段階から箝口令の念書を書かされた。
貴族の中ではフェリーチェは『公爵家の秘蔵っ子』『深窓の令嬢』『公爵家の奥深くに大事に仕舞われ中々外に出てこない』『実は誘拐されて殺された』『病弱でずっと寝たきり』など噂は枚挙にいとまがなく、そういった意味で有名ではあったが、本当に誘拐されていて最近見つかったとの具体的な真相を聞かされ、驚いた反面、これは守秘の念書もやむなしであると思えた。
更に三ヶ月後には身の振り方を改めて考えるそうなので、平民に戻るかもしれない事を考えると、むしろ見つかった事を大っぴらにしない方が良い事は分かる。
フェリーチェの現状を聞き、お互いの相性を知る為に顔合わせから始めたが、今は自分に自信が無いだけで、磨けば光るだけの賢さを持っている事が分かった。
そして何よりも本人の好奇心が旺盛な事が好感を持てた。
そう公爵に伝えると、フェリーチェは仲良くしたい方には略称で呼ぶ様に求める事を教えて下さった。
そう言えば最初のご挨拶でその様に求められた事を思い出して、マインは心がくすぐったい様な気持ちになった。
何度目かの授業の際に、フェリーチェは素直にマナーの練習を頑張っているが、心が伴っていない事にマインは気がついた。
それについて問答しているうちに懐かしい名前が出た。
話にあった元侯爵家のケリー先生とは、ケリガンのことであろう。
時折マインが驚くくらい、ふと美しい所作を見せる事があるフェリーチェ。マインが教えた所作をケリガンがフェリーチェに教えたのだろうと思うと胸が熱くなる。
いつかのケリガンの手紙にあった『真心を周りに伝えていく』といった一節を思い出した。
そんな心がふわふわと温かくなったところに冷や水が掛けられた。
死んでしまった…。
これほどの後悔をマインはした事が無かった。
ーー何故あの時、修道院の門を叩かなかったのか。
ーー何故あの時、私の真心をケリガンに伝えなかったのか。
フェリーチェの前での失態に、事情を聞きたがった公爵へと、胸が重くなるほどの後悔を抱えたままだったこれまでの経緯をマインは語った。
一連を語り終わると、公爵はなるほどと頷いた。
生徒の前でこんなに動揺してしまったマインは、マナー講師失格と断じられても仕方がないと思った。
ところが公爵は静かに言った。
「マイン先生。教えて下さってありがとうございます。
この話はフェリにしても宜しいですか?」
「構いません。むしろフェリーチェ様が動揺なさっていないか心配です。私は講師失格ですわ」
すると公爵は頭を横に振った。
「先生。フェリに今、必要なものは貴族にありがちな欺瞞や装飾では無いと私は思っているのです。
それは後々は必要になるでしょうね。
ですが何もここに基盤がないフェリには、先程先生のお話の中にもあった『真心』をその基盤として置いてあげなければならないと思うのです。
それが無ければフェリだって、誰も何も信頼もできないでしょうからね。
ですから、私は招いた先生方には『真心』がある事を選定の基準にしました。フェリの周りにフェリが信頼出来る大人を増やしたかったのです。
更には先生はフェリの恩人である、ケリー先生の恩師でもあられた。この様なご縁は大事にせねばなりません。
どうかフェリとも話をさせていただきたいですし、是非フェリへの指導も継続していただきたい」
公爵はこう言うと、マインに頭を下げた。
「もったいない事でございます…」
マインは滲む涙に声が震えた。
脳裏に水色の髪の、好奇心にピカピカと輝く金色の目を持つお嬢様が浮かんだ。その背後に穏やかに笑う、大きくなったケリガンが立っている様な気がした。
仕方がなかったとは言え、結果的に途中で投げ出すことになってしまった心残りの仕事を、マインはまた手にする事が出来た様な気がした。
しかも今は亡き生徒との共同作業だ。
ケリガン様、一緒にフェリーチェ様をお育ていたしましょうね。
マインは胸の前に手を合わせて、ケリガンに心の中からそっと話しかけた。




