静かなる封じ手——情報の“矛先をずらす者たち”
佐伯仁志は、不安を抱きながらPCにデータをまとめていた。
そこに、一本のメールが届いた。
差出人:市役所 広報課・情報開示審査室
件名:【要確認】資料保持と開示の適正手続きについて
本文:「佐伯様が所持している情報について、機密保持義務および地方公務員法第34条の規定により、開示に先立ち照会が必要です」
まるで、情報の使用そのものを“違法”に見せかけるような通知だった。
さらに、佐伯の自宅には市税課からの突然の通知が届く。
「令和6年度の住民税に関する一部精査のお願い」
わずかな納税額の齟齬を理由に、信用情報に圧力をかけるような動き。
「……これは偶然じゃない」
佐伯は、かつての自分が“組織側”だったことを思い出し、頭を抱えた。
一方、記者の藤嶋にも、静かに、しかし確実な“圧力”がかかり始めていた。
ある朝、デスクに戻った藤嶋は、自身の引き出しに無造作に差し込まれていた封筒に気づいた。
差出人はなく、宛名もない。ただ中には、一枚のコピーが入っていた。
「編集判断の逸脱に関する懸念事項」
——中央紙本社報道倫理部宛
件名には「地方支局における政治案件の扱いについて」とあり、
末尾には“記者の個人的な正義感が、報道機関の中立性を脅かす恐れがある”との一文が、
赤字でライン引きされていた。
誰が送ったのか。
なぜ今なのか。
その手の文書は、直接本人に届くことはないのが通例だった。
つまり——これは「わかっているな?」という無言の警告だった。
さらにその日の午後、編集長から呼び出された。
「藤嶋……今追ってる“あの件”だけどな、少し距離を取らないか?」
「理由は?」
「本社から、“政治的な立場の明示にならないように”って注意が来てる。
うちとしても……スポンサーとの関係もあるし、無視できないんだよ」
編集長は、机の上に置かれた携帯電話をちらりと見て、声を潜めた。
「それに——“市の広報”からも連絡があった。
“誤解を与えるような報道が続けば、公式コメントは今後提供しない可能性がある”ってな」
表向きは“連携の見直し”。
だが実質的には、情報遮断という名の報道妨害だった。
藤嶋は、静かに口を結んだ。
かつて自分が新人記者だった頃、上司から教えられた言葉が脳裏に蘇る。
——「報道の自由は、奪われるものじゃない。
自ら手放すことで、壊れていくんだ」
今、この瞬間も、藤嶋のまわりで“自由”の形をした檻が組み上げられていく。
そのことに気づける者は少なく、
気づいた者の中でも——
抗える者は、もっと少ない。
だが、藤嶋はその封筒を、そっと折りたたんでポケットに入れた。
捨てはしなかった。
それは、“声をあげ続ける者の覚悟”を忘れないための、重しだった。
—
夜、旧商工会事務所の中に悠斗、秋山、三浦、佐伯の姿があった。
佐伯は決意を新たにした。
「法の網を使って、正義をねじ曲げる……。
ならば、こっちは“人の信念”で、それを正すしかない」
その声は、揺れていなかった。
佐伯は、机の上に置いた二つの封筒をそっと手に取る。
一つは、法的に開示可能な会議要旨と議決記録。
もう一つは、自らが出席し発言したことを明記した誓約文。
「森田くん、これを君に託す。
もう一度、誰かに渡すつもりはない。君だから渡す」
封筒を差し出すその手に、わずかな震えがあった。
それが、彼の覚悟の証だった。
悠斗は、深く頭を下げ、封筒を両手で受け取った。
「佐伯さん……あなたがここまで残してくれたから、今、僕らは動けているんです」
「この街で何が起きていたのか、知る権利がある人たちが、たくさんいる」
「だから——僕たちが止まったら、全部、また闇に戻ってしまう」
悠斗が封筒を受け取り、深く頭を下げたそのとき——
不意に、控えめなノック音が響いた。
ドアが開き、見慣れない中年の男が一歩、室内へと足を踏み入れる。
濃いコートの襟を立て、顔に疲れの色を浮かべてはいるが、その目には鋭い光があった。
「お邪魔します。記者の藤嶋です。森田悠斗くん……こちらにいると聞いて」
「……藤嶋記者……!」
悠斗が声を上げ、秋山が思わず立ち上がった。
「少し前に、君たちから受け取った資料。あれを見て——動かずにはいられなかった」
藤嶋は言うと、手に持っていた古びたノートを机の上に置いた。
「これは、十数年前、俺がまだ若かった頃に追っていた“再開発初期計画”の資料だ。
一度は握り潰された話だが、どうやら今の件と“根っこ”がつながっている」
佐伯が、静かに問いかける。
「……あなた、もしかして、あの“桜川記事”を書いていた?」
「覚えてくれてたか。あれ以来ずっと、“次”を待っていたんだ」
二人の視線が交わる。
立場も経歴も違う。
だが、“なぜ黙っていられなかったか”は、同じだった。
佐伯が、かすかに微笑んだ。
「……皮肉ですね。報道と行政、それぞれの片隅にいた人間が、こうして同じ部屋で、同じ“膿”を見てるとは」
藤嶋が肩をすくめる。
「俺たち大人は、手遅れになる前にやるしかない。……そう思っただけさ」
悠斗が、二人を見つめる。
「じゃあ……一緒に?」
三浦は首を振った。
「いや。ここからは、俺たちの番だ。
藤嶋記者は“伝える側”だし、佐伯さんは“過去を明かす側”。」
「だが、“真っ当に生きる人間が報われる未来”を作っていくのは
俺たち商工会しかいない」
その目には、静かな決意が宿っていた。
「三浦さん...。」
佐伯も、静かに頷く。
「託すよ、森田くん。この街に必要なのは、過去じゃなく、“これから”なんだ」
秋山がその横で微笑み、小さくうなずく。
沈黙していた部屋の空気が、確かに変わった。
“失われた声”と、“これからの意志”が、確かに繋がったのだ。
悠斗は、強く封筒を握りしめる。
「……暴くんじゃない。証明するんだ。
嘘に支配された街を、事実で塗り替えるために」




