商工会の日常と、ゆるやかな時間
朝8時を少し過ぎたころ、桜川商工会館には次々と職員たちが出勤してきた。
「おはようございまーす!」
「おはよう、森田くん。」
コピー機の前では、先輩職員の秋山真由が慌ただしく書類をまとめている。
「今朝は、補助金申請の相談が多くてね。」
「なるほど、大変そうですね。」
悠斗は手伝おうと近づくが——
「ちょっと待って! これ、順番通りに並んでるから崩しちゃダメよ!」
「うわっ、すみません!」
秋山に制止され、そっと手を引っ込めた。
まだまだ慣れないことも多いが、それでもこの商工会の仕事が好きだった。
午前十時を少し回ったころ、商工会館の玄関に設置された自動ドアが、静かに音を立てて開いた。
「やあやあ、今日もよろしく頼むよ。」
最初に現れたのは、老舗和菓子店「山村屋」の店主、山村茂吉だった。
年季の入った割烹着に身を包み、両手には風呂敷で丁寧に包まれた大きな包みを抱えている。
しっかりとした足取りと、目尻に刻まれた皺が、彼の歩んできた職人としての年月を物語っていた。
「山村さん、おはようございます!」
悠斗が元気に声をかけると、山村は目を細めて笑い、包みを差し出した。
「ああ、おはようさん。ちょっと手土産持ってきたから、休憩の時にでも食べなさい。」
「わぁ、ありがとうございます!」
包みをほどいた瞬間、甘く香ばしい香りがふわりと空気に混じる。中には、ふっくらとしたどら焼きがぎっしりと詰まっていた。
手間暇を惜しまぬ手作りの逸品――そのひとつひとつに、山村のこだわりと誇りが詰まっている。
「相変わらず、山村屋さんのどら焼きは美味しそうですね……!」
「おう、うちの看板商品だからな。」
胸を張る山村の表情に、職人の気骨が滲む。しかし、ふと顔を曇らせると、静かに言葉を続けた。
「でも最近、どうにも若いもんが来なくてなあ……。」
悠斗は表情を引き締め、相手の目をまっすぐに見つめた。
「それなら、SNSを活用してみるのはどうですか?」
「えすえぬ……?」
「えっと、インターネットで宣伝する方法です!」
山村は顎に手を当て、考え込んだ。
「ふむ……わしにはちと難しそうじゃが……。」
「大丈夫です! 僕がやり方を教えますよ!」
「ほう、それは心強いのう!」
二人の間に、世代を超えた信頼の空気がふわりと生まれる。
その時、ドアの開く音がもう一度響いた。
「やあやあ、おはよう! 今日は相談じゃなくて、ちょっと世間話に来ただけだよ。」
入ってきたのは、地元の八百屋「田中青果」の店主・田中だった。日焼けした顔と丸まった背中が、彼の地道な商いを物語っている。
「田中さん、最近お店の調子はどうですか?」
「ぼちぼちだなぁ。でも、この前試しに“ミニトマトの詰め放題”をやってみたら、意外とお客さんが増えたよ!」
「へぇ! それ、すごく良いアイデアですね!」
「だろ? やっぱりお客さんって、ちょっとした“お得感”があると喜ぶんだなぁ。」
田中は目を細めて笑う。その笑顔は、畑の陽だまりのようにあたたかかった。
商工会では、こうした何気ない会話の中からも、新しいヒントが生まれていく。商品を売る技術ではなく、人を想う気持ちが、街の商いを支えていた。
のんびりとした昼休み
昼を過ぎると、事務所に一息つく空気が漂い始める。
「さて、松田屋さんのどら焼き、いただきましょうか!」
秋山が包みを開くと、ほわりと甘い香りが広がり、職員たちの顔に笑みが浮かぶ。悠斗はどら焼きを手に取り、ためらいなく口に運んだ。
「……ふわっふわですね!! あんこも程よい甘さで最高です!」
「松田さんの店、やっぱりすごいよなぁ……。」
控えめにそう呟いた声がきっかけとなり、職員たちが自然と一つのテーブルに集まってくる。
和やかな笑い声が飛び交い、どら焼きとコーヒーが、少しだけ疲れた心を癒していく。
「こういう時間があるから、この仕事が好きなんですよね。」
ぽつりと呟いた悠斗に、秋山が優しく微笑んだ。
「そうね。相談を受けることも多いけど、みんな温かい人ばかりだから、やりがいもあるわよね。」
商工会は、ただの支援の場ではない。人と人がつながり、時に励まし、時に笑い合う、町の“縁側”のような場所でもあった。
その空気を破るように、会長室のドアが、わずかに軋んだ音を立てて開いた。
滝本伸一――商工会の会長が、無言で姿を現す。
彼の登場に、職員たちは一瞬背筋を伸ばした。
「……ふむ、みんな今日も元気に働いているようだな。」
淡々とした声に、秋山が一礼する。
「滝本会長、お疲れ様です。」
「お疲れ様。」
滝本は一切表情を変えず、まっすぐに秋山へと視線を向けた。
「最近、商店街の売上データはどうなっている?」
「えっと、今月の報告書がこちらに……。」
秋山が手渡したファイルに、彼は目を落とす。その眼差しは冷静で、どこか遠くを見るようだった。
「なるほど……。」
短い言葉に、彼の内側の計算が滲む。
「引き続き、商工会として支援を続けるように。」
それだけを告げて、彼は再び無言のまま会長室へと戻っていった。
ドアが閉じた後の空間には、わずかな緊張の余韻が残る。
「……相変わらず、何を考えているのか分からない人ね。」
秋山がぽつりと漏らした言葉に、悠斗は黙って頷きながら、窓の外を眺めた。
風はなく、木々の葉一枚すら揺れていない。まるで、時間だけが止まったかのように、不自然な静けさが広がっていた。
その静寂の向こうに、やがて始まる何かを、彼はうっすらと感じていた――。