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雨だれ

作者: 黒ヒジキ2

蘇芳の剣は護りの剣である。

藤木信綱は師匠である藤綱からそう言い聞かせられてきた。

弱きを助け、強きをくじき、ひいては民に安寧をもたらす。そのためにふるうのだ、と。

だが、その理想で食べていけるほど、現実は甘くはなかった。


蘇芳の剣は護りの剣であり、実用に重きをおいた地味な流派であった。

また、道場の立地も広く場所を確保するため人里から少し離れたところにあった。

そのためであろう。

門下生はさほど多くなく、貧しかった。

清貧と言えば聞こえがいいが、今日の食事も満足に食えるほどではなかった。ただの貧乏暮らしをごまかしているだけだった。

師匠の藤綱から免許皆伝を受け、その引退によって道場を譲り受けた信綱は、その運営にいつも頭を悩まされていた。


そんな折、信綱はかつての同門であり今では家老にまで出世した伊佐隆信から、依頼があると、隆信の屋敷に呼び出された。

人目をはばかるように夜の暗い中、酒とともにきりだされたのは、まだ幼い先代藩主の末子の暗殺であった。

隆信によれば、もともとは問題なく現藩主の長子が嫡男として立てられることとなっているらしい。

そこに先代藩主が横槍を入れてきたのだそうだ。

「なぜ今さら」

「先代の末子の母だ。相当な野心家でな。今代にとりつくシマがなかったから先代に取り入ったのだ」

「先代は相当な歳だろう」

信綱の記憶によれば先代藩主はすでに70近いはずだ。

「それよ。末子が真実先代の子であるとは誰も思うとらんわ」

先代以外はな、と隆信はそう言って笑った。

「見返りはあるのか」

「おぬしを藩の剣術指南役とすることにやぶさかではない」

どうする、と隆信は声に出さずに目で聞いてきた。

「相手はどこにいる」

「蘇芳の庵だ」

信綱は自身の顔から血の気が引くのを感じた。

蘇芳の庵は、引退した信綱たちの師匠である藤綱が住む庵であった。

つまりそれは信綱の師匠が警護していることを意味する。

だからか。なぜ信綱に依頼したのかその意味が分かった。目の前の隆信は中伝であり、信綱は皆伝で蘇芳の道場の師範役であった。

「俺に、師匠を裏切れと……」

「どうするかはお前次第だ。ただ一つ言わせてもらえば、後腐れなく終わらせるなら消えてもらうのが一番良い」

信綱は目の前の隆信を睨めつけた。

隆信は涼しい顔で盃を傾けていた。

信綱は断ってしまおうか、と思ったが、すぐに思い直した。藩の剣術指南役となれば、安定した禄をそれなりにもらえる。それに道場に箔が付く。門下生も増えるだろう。そうすれば暮らしも楽になる。

だが、そのために師匠を裏切ったのでは道義にもとる。

信綱の迷いを感じたのであろう、隆信は話を続けた。

「もし、お家騒動ともなれば伊佐坂藩はお取り潰となるだろう。そうなれば我々はどうなることか。今迄のようにはゆかぬだろうな」

その言葉に信綱の心は揺らいだ。ただでさえ苦しい身のうちだ。そこにお取り潰の混乱が重なればどうなることか。

「蘇芳の剣は護りの剣。民の安寧を護るための剣だろう」

そう言いながら隆信は徳利を差し出してきた。

「犠牲は少なければ少ない程良い。そうだろう」

信綱の差し出した盃に酒を注ぎながら隆信は言った。

注がれる酒を信綱は拒めなかった。

信綱は隆信の手入れの行き届いた高価そうな着物を見、己の着物のツギハギを無意識に撫でていた。

信綱は隆信の依頼を受けることにした。


信綱は隆信から依頼された翌日には動き始めていた。

後ろ暗いことだ。長引かせずすぐに終わらせてしまおうと考えてのことだった。

まずツテを頼りに先代藩主の今の奥方の評判を探れば、隆信の言っていたとおりの女であるらしいことが分かった。

おかげで信綱は自身の内に大義を作ることが出来てしまった。

平穏を乱す存在を除くのだ、正義の行いである、と。

問題は、師匠が相手となることだ。

蘇芳の剣は護りの剣。地味で派手さはないが、護ることに長けた術理の数々は襲う側からすれば厄介極まりない。

(手の内は分かっている。なら、やれるはずだ)

弟子であることも有利に働くはずだ。

信綱は努めて顔に出さぬよう注意した。些細なことを見逃さないようにすることは蘇芳の剣の教えの一つだ。

(師匠に気取られたら終わりだ)

道場を任せられているとはいえ、信綱の腕前は未だ師匠から三本に一本勝ちを拾えるかどうかといったところである。真剣勝負ともなれば、どうなるか。

(確実にやるのであれば……)

信綱は覚悟を決めた。


「おお、信綱か。久しいな。どうしたのだ」

蘇芳の庵を訪れた信綱を、師匠の藤綱は庵の戸口の前で快く出迎えた。戸口は閉められたままであった。

「お久しぶりにございます。実はお耳に入れたきことがございます」

「なんだ」

「師匠のお守りするお子を殺そうとするものがおります」

信綱の考えた筋書きは、暗殺者の存在をあえて明かし、懐に潜り込んで暗殺するというものだった。下手に小細工などした方が危ういと考えた結果であった。

「信綱、その話誰に聞いた」

「伊佐坂藩の御家老である伊佐隆信様から兄弟子を通じ手助けするよう依頼があったのです」

「伊佐様からか」

伊佐の名によって藤綱はわずかに気を許したようだった。

一人きりでは気が休まる暇もなかったのだろう。

「助かる。いつ来るか分からん相手を待つのは老体に堪える」

そう言う藤綱の声音は弱りきっていた。

「それは、さぞお辛いでしょう」

「お前がいるなら安心だ」

藤綱はそう言い、

「藤佐もいればなあ」

と天を仰ぐようにつぶやいた。

信綱は、そのつぶやきに、懐かしい純粋な少年の声が己を引き止めようとするのを聞いた気がした。

藤佐は藤綱の実孫である。そして、信綱の一番弟子でもあり、稚児趣味の信綱の恋人であった。

藤佐は十五歳のときに藤佐は武者修行の旅に出ており、もう一年ほどになる。信綱の目から見ても優秀な剣士であった。

「確かに……」

藤佐がいたら、自分はこの話を受けていたであろうか、信綱はそんな考えが頭をよぎった。

「そうだ、信綱。お前を紹介せねばな」

藤綱はそう言いながら戸を開け、信綱に庵に入るよう促した。

信綱が戸口を通る間、藤綱は信綱を何気ない仕草で観察しながら、おかしな動きを見せればすぐ切り捨てられるように刀の柄にごく自然に手をおいていた。

信綱が蘇芳の教えをよく知っていればこそ藤綱の警戒に気付いたが、そうでなければ見逃したであろう。

蘇芳の庵は、6畳ほどの作業場を兼ねた土間と板張りの6畳間一部屋しかない。

その6畳間の半分ほどのところに、布で仕切りがされていた。

信綱が土間で部屋に上がって良いか逡巡した。ここで変に疑われては困る。

「奥だ」

迷う信綱を見て、藤綱がそう言いながら刀の柄に手をかけたまま部屋に上がり、仕切りの向こうに一言かけると布の仕切りをめくった。

そこには、いずれも仕立ての良い着物を着た、まだ5つくらいの子供と先代藩主の奥方がかと思しき女がいた。

「誰だそやつ」

女は傲慢に吐き捨て藤綱を睨めつけた。

「不肖の弟子、信綱でございます」

藤綱が信綱を紹介すると、信綱は部屋に上がるよう促された。

「信綱と申します。御家老様より警護する師匠に助力いたすよう依頼され参りました」

そう頭を下げる信綱を奥方は鼻で笑い、手を降って下がるよう指示した。

藤綱がその指示に従いめくった布を下ろした。

「今のが先代の奥方様と若様だ」

「随分と気が張っておられるようですな」

「そうだな。先代藩主がわが子可愛さに余計なことをせねば気楽であったろうな……」

藤綱の言い様からは気苦労が滲んでいた。


それから、信綱は初の対面から一月ほど通い詰め、信頼を得られるよう心を配った。

そこで分かったのは、藤綱は先代藩主のやろうとしていることに賛同していないようで、度々信綱に愚痴を聞かせた。藤綱は先代藩主が余計なことを言ったせいで奥方の野心に火を点けたと考えているようであった。

奥方は奥方で、わが子をどこか道具のように扱っていた。一月接する内に分かったが奥方は評判どおりの傲慢で我儘な女であった。

対して若様は大人しく気弱で意志薄弱な子であった。まだ何もわからず、自ら何か決めることも許されないような子が命を奪われようとすることに信綱は哀れに思った。

(しかし、殺らねばならぬのだ……)

信綱の筋書きは見事にはまった。

初めて若様と対面してから二月ほど立つころには先代藩主の末子の湯浴みの手伝いを任されるようになっていた。初めのうちは警戒され、農具や紐のような凶器になりえる物のあるところはもちろん、水のあるところにすら近づけさせてはもらえなかったのだ。

すっかり油断しきった藤綱の隙を見計らい、信綱は先代藩主の末子を湯浴みに使う桶に沈めた。

その際に桶の縁に後頭部を打ち据え、湯桶の中で足を滑らせ、気を失ったように見せかけた。

多少不自然でも、調査する方も根回し済みだから、確実に相手が死ぬよう意識を集中させた。

抵抗されることもなく、手を下した信綱ですら信じられないほど呆気なく先代藩主の末子は死んだ。

信綱は大げさに騒ぎ、師匠から教わった延命の措置を必死に行った。

すでに死んでいるのだから、延命措置など無意味であることは信綱にはよくわかっていた。

信綱の声を聞きつけた先代の奥方の嘆く声がした。

信綱は頃合いを図り、延命措置を止め、一通り脈や呼吸などを調べ、確実に息の根が止まった事を確認すると、奥方に向け首を振ってみせた。暗殺に成功し、先代藩主の末子は死んだ。

ふと気付けば、藤綱が傍らに立って信綱を見つめていた。信綱はすぐに顔を反らした。師である藤綱の顔を見ることができなかった。


先代藩主の末子は入浴中の事故死ということで片付けられた。

だから、信綱も藤綱もお咎めはなかった。

ただ藤綱は真実に気付いていたようだった。

しかし、藤綱は責任を取り切腹した。藤綱が介錯をした。

切腹の際、藤綱は信綱に何も言いはしなかった。

ただ、澄んだ眼差しで微笑み、信綱を見ただけだった。

信綱には、その笑みが理解できなかった。弟子である自分への信頼なのか、それとも安堵させようとしてのことなのか。しかし、信綱の覚悟は決まり、怯えが消えた。

だから、信綱の剣は乱れなく藤綱の首を落とすことが出来た。

信綱には藤綱の首は穏やかに見えた。

残された遺言書には、言葉少なに信綱への感謝と、最後まで責任を持つよう書かれていた。

その遺言に信綱は自らの手に先代藩主の末子を沈めた感触が蘇り、そこに藤綱を斬った感触が重なるように感じられた。


信綱は藤綱の供養を済ませた後、暗殺が成功したことを隆信に伝えると、隆信は約束通り信綱を剣術指南役に推挙してくれた。

藩主の前で形式的な試験として試合を行ったものの、それ以外は特に労せずに役につくことができた。

なお、先代藩主とその奥方が反逆罪に問われ、斬首されたのは、隆信が信綱を推挙する前日であった。


信綱が道場で教える剣術が変節し始めたのもこの頃であった。

蘇芳の剣の地味な術理を説くよりも、受けが良く分かりやすい型を重視するようになっていった。

そしてそれがうまく当たり、門下生の拡大につながった。

そうして、一度変節すれば後戻りはできなかった。

だが、信綱は蘇芳の剣を広めるため、と自分に言い聞かせた。

仕官し、地位を得て、道場を大きくする。

それこそが、蘇芳の剣のためと、そう自身に言い聞かせた。


藤佐が二年の武者修行の旅から戻ったのは、そんな時であった。

藤佐が道場に現れたと聞いた時、信綱は全身に喜びが満ちると同時に強い恐れを抱いた。

信綱の手に藤綱を斬った感触が蘇った。もし藤佐にあの謀略がばれたらどうするだろうか。

そもそもどんな顔で藤佐に会えばいいのか。信綱には分からなかった。


武者修行から戻ってから、藤佐が道場に顔を出すのは決まって信綱が城へ剣術指南へ出向いているときであった。弟子たちに藤佐の様子をきけば、請えば指導してくれるが、だいたいは黙って道場の隅で稽古の様子を眺めているのだという。

それは信綱に強い後悔と不安を覚えさせた。

変節した蘇芳の剣を藤佐はどんな想いで眺めているのか。変節させた信綱にどんな想いを抱いているのか。

そして、信綱の師匠への裏切りを藤佐は気付いているのか。

藤佐が道場に顔を出したと聞く度に信綱はなぜ会ってくれぬのかと思うと共に、安堵もしていた。

藤佐はまだ気付いていない。だからまだ会いに来ないのだ、と。


雨の中、信綱は一人歩いていた。

城に剣術指南に行った帰りである。

藤佐には未だ会えていなかった。

信綱のさす赤い傘を叩く雨音は、彼の周囲の音を消し去っていった。

だから、信綱は、いつの間にか周囲に人っ子一人いなくなったことにも気付かなかった。

信綱が路地裏に差し掛かったところで、雨の中にぼんやりと人影が見えた。

傘もささずに佇むその男に、信綱は見覚えがあった。

かつて弟子として剣術を指導した男であった。

その男は無表情に信綱の前に立ち塞がった。

「どうして裏切られたのですか」

男の問いかけはまるで慟哭のようであった。男には信綱の答えなど要らぬのであろう。

「いつ気付いた」

「蘇芳の香りが、しませなんだので」

信綱は、一瞬何のことかと返そうとした。

「ああ、そうか……」

男の言う蘇芳とは、花のことではない。蘇芳の剣のことだ。

そして、信綱が変節させた流派の名でもあった。

「そうか。せなんだか……」

信綱は一瞬瞑目し、傘を投げ捨て刀を抜き放ちながら男に斬りかかった。

しかし、不意打ちを狙って放った信綱の一撃は男の刀によって受け止められた。

防がれたのを知るや、信綱はすぐに間合いを取り直し、抜いた刀を正眼に構えた。

相対する男は上段に構えていた。

その構えは、信綱の記憶にある正統の蘇芳の剣を呼び起こした。

「やるようになったな……」

信綱の記憶にある男なら最初の一撃を防ぐことなどできなかっただろう。

男は無言で間合いを詰めてきた。

信綱はそれに応じ、ゆっくり右回りに間合いを詰め、機を伺う。

やがて、その時が訪れた。

先に動いたのはどちらだったか。

振り下ろしを避けつつ右胴を狙った信綱よりも男の振り下ろしは早かった。

信綱は袈裟懸けに斬り捨てられ、地に倒れ伏していた。

男には傷一つなかった。

「蘇芳の香りはしませなんだか」

「……せなんだ」

男は信綱の頭の横に膝をついていた。

信綱からは男は変わらず無表情であった。

ただ、剣客として信綱は男に伝えねばならぬことがあった。

「ふじならば……」

それが信綱の最後の言葉だった。


信綱を斬った男、藤佐はただ師匠であり、恋人であった信綱の傍らで跪くのみであった。

そして、その頬を、雨だれが滴り落ちていくばかりであった。


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