107.(少しだけざわめく)
「完成した?」
離れて、仕上がりを確認していたら藤本が起きた。目を擦っている。
「どうかな」
「もう夜明けなんだ」
云われて気付いた。そうか、手元が明るいと思っていたが、夜明けだったのか。
見上げれば、空はプルシャンブルーからコバルトブルー、そしてライトブルーへと、まるで溶かした水彩のグラデーションのようになっていた。鳥の啼き声がする。バイクの音は、新聞配達だろうか。色彩が世界に戻ってきたのと同じくして、街も目覚めたのだろう。様々な夜明けの音がきこえてくる。
「どうだ?」
「いいよ、とても」
「そうか」
それから伸男は、仕上げにかかった。
描いたドアノブと蝶番に、ハイライトを入れる。
すっかり夜は明けた。
離れて確認していると、藤本も横に並んだ。「完成?」
「どうだろう」
「どうなの」
「分らない。どう思う?」
「完成かな」
「じゃぁ完成だ」
「いいの?」
「いい」
「お疲れさま」
「道具、洗ってくる」
バケツの水をひっくり返し、筆と刷毛を洗って、すっかり絵の具まみれになってた手もきれいにした。爪と指の間は落としきれなかった。
武道館裏に戻ると、藤本は荷物をまとめていた。
伸男もタオルで道具を拭い、片付けを始めた。レジャーシートの養生を取り、ダクトテープを剥がして丸め、持ってきたビニールのレジ袋に詰めて小さく圧縮。
「これからどうするんだ」
「うん?」
「おれはお役ご免でいいか」
「うん、ありがとう」
「どういたしまして」
荷物をすっかり詰め込んだバッグのチャックを閉めながら伸男は応える。変なところに力が入っていたらしい。身体の筋が、少し痛んだ。
ふたりして同時に荷物を抱えた。歩き出そうとした伸男に対して、藤本はじっと、描き上がった扉の絵を見ている。
「帰ろう」
伸男の呼び掛けに、藤本は答えず、小さな階段を昇った。それから、本当の扉があるかのように、手を伸ばした。藤本の指先が滲んで見えた。伸男はただ、ぼんやりとそれを眺めていた。頭の隅で、何か引っかかるのを感じたが、それはすぐに消えた。
扉は、開かれる為にある。
扉は、開く為に作られる。
「じゃ、ちょっと行ってくるね」
藤本は身体を揺すって巨大なナップザックを担ぎ直すと、にかっと太陽のように笑った。その向こうで、扉が開いていた。
「ちょっと──、」
まて、と云い終わらないうちに藤本の姿は扉の向うに消えていた。そして扉は、音もなく閉まる。
荷物を下ろした伸男は階段を昇り、自分が描いた扉の前に立つ。
「藤本」
絵の前で呼びかけた。
扉の絵。閉じた、扉の絵。
その向こう側へ呼びかけた。手で触れる。重ね塗りされたアクリル絵の具特有の、のっぺりとした肌触り、コンクリートの堅くてひやりとした感触、藤本が消えた先。
明けた世界の色彩の中で、描き上げたばかりの絵なのに、それはくすんで見えた。
※
クラスに誰も座っていない席がある。誰のものでもない、机と椅子。
伸男はそれを見るたびに何か胸に引っかかるものを感じたが、やがてそれも忘れた。
季節は多少の遅速はあるものの、概ね平等に過ぎていく。いつしか育った町とも疎遠になる。
しかし、毎年五月が巡ってくると、決まって胸の内が少しだけざわめくのだった。
特によく晴れた日の、新緑の眩しい木々を見ると。
※
アブラゼミが喧しい。
カン、と響いた小気味よい金属音は野球部だ。ちょうど建物の日蔭になるとはいえ、夏は夏。肩にかけたタオルで汗を拭う。絵の具が飛び跳ねたTシャツもすっかり汗で湿っていた。
ふと、床板を踏み抜かんばかりに聞こえていた剣道部の練習する音が止んでいるのに気がついた。休憩中だろうか。
「すげぇな」
声の方を向けば、手ぬぐいを首にかけ、胴着姿の男子生徒たちが自分を見ていた。
「俺、騙されてたっすよ」
丸刈りの一年生とおぼしき男子が云うと、俺も俺もと皆が賛同した。「全然、気がつかなかった」
「光栄だな」
水を張ったバケツに筆を突っ込み、剣道部に微笑みかけた。
「しかしなぁ──」腕を組んだ同学年の主将が云った。「よく許可されたよな」
「伝統だよ」
五段の小さな階段を降り、描きかけの絵の全体を眺める。うん、いいだろう。「美術部三年の卒業制作、学校のお墨付きで壁に落書き」
「誰が始めたんだ?」
「さぁ」肩をすくめるしかなかった。しかし、理由は知っている。「階段があるのに、扉がないってのは変だと思うけどね」
そうだな、と主将は同意した。
「裏口があれば、センパイの目を盗んで逃げ出せたのに」
二年だろうか、おどけたその言葉に皆が笑った。
「なんだと?」と云いながらも、主将も笑っている。
※
武道館の裏には、小さな階段がある。
その作られた目的は、忘れられている。
─了─