106.(面倒なやつだ)
「夜食持ってきてるよ」
藤本は大きな荷物の中から銀紙に包まれたおにぎりと魔法瓶の水筒を取り出した。「休憩にしよ」
促され、階段に並んで腰掛けた。
「おかか、うめぼし、やきたらこ」
変な節をつけながら、藤本は銀色のそれを次々と伸男に手渡す。
「これ、お前が作ったの?」おにぎり。
すると藤本は一瞬止まって、それからにやぁっと笑った。「どうしてそう思うの」
「いや、さ」なんだ。まさかそう返されるとは。「コンビニとかでいいじゃん」それをわざわざ。
「そっか」
藤本は納得したように。「コンビニでもよかったかぁ」
「いや、そうじゃなくて……」云い掛けて、確信した。「やっぱお前が作ったんじゃんか」
「どうしてそう思うのよ」
「作ってもらったらそんな顔しないだろ」
つまり、分かってて、にやっと笑ったのだ。違いない。
「やっだー」
ちっともそう思ってない平坦な声で藤本は云った。「探偵さんだ」
「だれが」
「君だよ、ワトソン君」
「そっちは助手じゃなかったか?」
「あれ?」藤本は少し考えて、おお、と続けた。「めんごめんご。さすがですな、ミスター・ベイカー」
「誰だよ、それ」
「ベイカーストリート。知らない?」
伸男はちょっと考えて。「ああ」
分かった。
なんて廻りくどい。
藤本ってこんなにマイペースで、しかもなんだか面倒なやつだとは思わなかった。けれども同時に、面白いやつだと思った。
そりゃそうだ。伸男は思った。真夜中の学校に忍び込んで落書きをしろ、だなんて。とんだ問題児だ、藤本は。そして共犯の自分も同罪か。
週明け、どうなるんだろうな、とぼんやり思いながら、受け取ったおにぎりの銀紙を開いた。きちんとした三角のおにぎりに、丁寧に海苔が巻かれていた。妙に感心した。
「食べないの?」
「いただきます」
伸男はおにぎりにかぶりついた。藤本も口にくわえながら、取り出した水筒から冷たいお茶を注いで渡してくれた。
みっつ平らげて一息ついた。おにぎりの塩味と、緑茶がとてもおいしかった。
藤本はふたつめのおにぎりを半分食べたところで、顔を空に向けていた。
「どうした」
「夏の月は明かりが湿っぽいね」
伸男も夜空を見上げる。「冬の月は硬いかな」
「そだね」
「絵が描き上がったらどうする?」
「描き上がってからのお楽しみ」
「そうかい」
「そだよ」
藤本は口を大きく開けると、ぱくりと残りのおにぎりを一口で食べた。
休憩した後、再び伸男は扉の絵の続きを始めた。スポンジと刷毛を使い分けて、思いきり良く腕を動かす。絵の具を乗せる。壁に描く。身体を目一杯使って描く。
ふと、手元が暗いと気付いたら、藤本が木の根元、幹にもたれかかってくぅくぅ寝ていた。
ずいぶんとしあわせそうな寝顔だ。
どのくらいのめり込んでいたのか、時計を確認して驚く。三時間もの時間が跳んでいた。
魔法瓶からお茶をもらって、咽喉を湿らせる。その冷たさが心地よく、おいしかった。
それから小用を思い出し、しかし校舎は鍵がかかっていることに思い当たり、結局武道館を離れて藤本の姿が見えないところで用足しをした。
夜明け前にはほとんど描き上がるだろう。あとは朝日の下で色合いを確認して調整すれば、充分だ。
結局、一晩で描いてしまった。
学校の施設の壁に落書きだなんて、よく考えなくとも充分まずいことだが、楽しんでいる自分を見つけた。なにより大きな絵というのが楽しい。しかも壁に描くだなんて。大胆に色を落とすことも楽しい。刷毛とスポンジ、十本の指を使って、自由に描くこと。
カンバスの大きさに比例して、楽しさは大きくなるのだろうか。
週明け、この絵が先生に見つかっても大したことでない気がしてきた。
けっこう大胆な自分を見つけた。それ以上に、犯罪現場でくぅくぅ呑気に寝ている藤本も大したやつだ。しかも主犯はあいつなのだから。
とりあえず、静かに寝かせておこう。
バケツの水を入れ替える。すっかりスポンジの出番は終わって、刷毛も三十号から十号に替える。筆を持ち出し、口にくわえては色を塗り、場所によって使い分け、壁にはりついて作業を続ける。