105.(誰も見たことがない)
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金曜日。一度、家に帰って、夜にまた荷物を持って家を出る。
美術部の合宿などと、ありもしない嘘をついた。
ふたりの姉からは、揃って胡散臭げな視線を投げられた。
絵の具にバケツにその他もろもろ。はからずも大荷物になった。
青白い光に街が包まれていた。
満月だった。
その明るさに伸男は少しみとれた。
街灯より幾倍も明るく、この月明かりの下ならば作業をするのに充分だろう。
校門の前。藤本は自分で云った約束の時間を五分ほど遅れてやって来た。
月明かりで、青白く染められたブラウスを着ていた。背には登山用かとおぼしき大きなナップザックを背負っていた。
ふたりして、閉ざされた校門をよじのぼって侵入した。
武道館の裏は、青白い光の中に木々が影を落としていた。
扉のない階段の上で、伸男は折畳みの踏み台を組み立てる。
「何に使うの?」
「扉と云っても、大きいんだ」
工務店から貰ってきたパンフレットを取り出し、藤本に見せる。
「どのくらい?」
「だいたい八〇センチに二メートルくらい」
「大きいね」
「ああ。ひとついいか?」
「なに?」
「内開きか、外開きか」
「なに?」
「だから、ドア」腕を動かし、扉の開閉の仕草をしてみせる。「武道館の中に向かって開くのか、外に向かって開くのか」
「あっ」そっか、と藤本。「うーん」
「どっちだ?」
「決めないとだめ?」
「じゃないと描けない」
「そっか」そっか、そっかと藤本。「じゃぁ、向こうに開く感じで」
「内開きだな」
「それって、どちらから見てってことだよね?」
「武道館についてるから内開きだろ」
「でもドアはこっちにあって、中にないよ」
「うん、まぁ」どうも面倒になってきた。「そうだな」だから伸男は話題を変えた。「バケツに水を汲んできてくれ」
「なんで?」
「分ったよ」
結局、ひとりで武道館脇の水道へ向かった。
内開きか、外開きか。誰から見て、と云う考え方は建物にはおかしいと思う。その基準は建物主体で、部屋が主体のはずだから。しかし、藤本の云うことも理解できないわけでもない。なぜなら、武道館の内には扉がないのだから。ならば武道館の中、これから描く外のそれと同じ位置に絵を描いたとしたら──?
伸男は苦笑した。罰則が倍になる。外壁だけならまだしも内となるともっと大変だ。いや、どっちも大概なことだけれども。反省文を何枚と書かされて多分、親が呼び出される。藤本ひとりに全部をおっかぶせることもあるだろうけれども、乗り掛かった船とはこういうものか。
たっぷりと水の入ったバケツを持って戻ると、藤本は伸男の荷物から勝手に絵の具を取り出し、それを物珍しそうにためつすがめつ眺めていた。
「ボトル入りの絵の具なんてあるんだ」
「途中で無くなったら困るし」
「そだね」
メジャーで寸法を測り、マスキングテープでアタリをつけた。
階段を降り、今し方アタリをつけた壁を見て思わず声が漏れた。「でかいなぁ」
分っていたつもりだが、実際に目の当たりにすると、その大きさに腰が引けた。五〇号を優に上廻る大きさだ。高さにいたっては百号より大きい。
「でかいね」藤本が云った。
「弱ったな」水で湿らせたスポンジで伸男は壁を洗う。
「何が?」
「月明かりだけだと、やっぱり色が分からない」
「懐中電灯持ってきたけど」
「普通のランプタイプ?」
「うん? これって蛍光灯かなぁ」
「ちょっと緑が被るかな」
「許容範囲でしょ」
「ん……まぁ藤本がそれでいいなら」
「いいっていいって」
「そうか」
「リアルなものでなくていい」
「そんな適当で」
「んとね。ここに描いて欲しいのは扉だけれども」
「うん」
「今まで誰も見たことがない扉になると思う」
「なんで」
「普通の扉には成り得ないからだよ」
「そうかい」
ひとしきり洗い終えると、ボロ布で壁を拭う。それから真下にレジャーシートを広げ、ダクトテープで貼り止め、養生とした。これで絵の具が垂れ落ちても汚れる心配がない。いよいよ作業開始だ。
スポンジで下地用の白いジェッソを壁一面に塗り込める。藤本が小さな蛍光灯で手元を照らしてくれた。
「あまり近づくと絵の具がはねる」
「洗えばいいじゃない?」
「洗っても落ちないぞ」
「そうなの?」
「アクリル絵の具は水溶性だけど乾くと耐水性になるんだ」
「でも離れると明かりが遠くなるからいいよ」
「そうか」
伸男は下地を塗り終えると、最初に塗ったところに触れ、乾き具合を確認する。
「もういいかな」
「そうなの?」
「アクリルは乾くのが早いんだ」
「面白いね」
作業は考えていたより早く、そして驚くほど、はかどった。面積が広い分、全部を塗れば最初に塗った箇所から乾いてゆき、重ね塗りが容易だった。
伸男は作業に没頭した。これだけの大きな絵を描くのは初めてのことだった。スポンジを使って描くことは、美術部に入って知った技法だった。いや、そもそも技法というほどのものですらないのだが、そのことに思い当たるのと知らぬのでは大きな差があった。絵を描くとは、カンバスに筆やナイフだとばかり信じていたが、それはつまらない既成概念だと教えられ、何を使おうとも、どのように描こうとも、いかに描こうとも、ルールなど存在しないのだと理解した。何を描きたいのかが、目的なのだ。
伸男にとってそれはある種のエポックメイキングだった。
ひとしきり大ざっぱに描き、藤本に明かりを消してもらう。離れて見ながらおかしいところはないかと検討していると、ぐぅとお腹が鳴った。