104.(扉の絵)
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週明け、伸男が美術室で部活動をしているところに藤本はやって来た。
十五号のカンバスにスポンジで描いているところに藤本はやって来た。
「油絵?」
入り口から首伸ばして、伸男の肩越しに美術室を覗き込む藤本。
「アクリル」
ふぅん。「どう違うの?」
「油と違ってペンチングオイルとか使わなくていいし、乾くのも早いし、水で溶けるから楽……なところ?」
へー、と藤本。「便利なんだ」
「それで、何の用?」
エプロンの裾を所在なげにつまみながら、伸男は訊いた。部員の少ない美術部だからこそ、部室前で女子に呼び出されるなんて気恥ずかしさを憶える。その気はなくとも、からかわれたりするのは気持ちが良くない。それに美術部は圧倒的に女子部員が多い。
藤本は目を細め、低い声で云った。「武道館裏」
「え?」
「先に行ってる」
スカートの裾をひるがえして、藤本は立ち去った。
伸男は手を洗い、スポンジを水を張ったバケツに放り込み、エプロンを脱ぐ。
なんでおれは素直にしたがっているのだろう。
「告白? 決闘?」
三年女子の部長が訊いてきた。曖昧に返事するのが精一杯だった。だから武道館裏に藤本の姿を認めた時、一言、云ってやりたくなった。
「なんか誤解された」
「どんな風に?」
返答に困った。やはり曖昧な顔をするしかなかった。しかし藤本は特に気にした様子でもなく、「お願いがあるんだけど」
「……なんだ」
「絵に自信あるよね?」
「自信と云うほどでは、」
「ここに扉の絵を描いて欲しい」
「え?」
「階段があるのに扉がないって変じゃない?」
「まぁ、そうかな」
「こないだ写真見せたよね?」
「あ、ああ」
「そこで私は考えた」
「ちょっとまて」なんか因果関係が分からないぞ。「どうしてそれが絵になる?」
「だから、私は考えた」
「何を」
「何も起きそうでないのなら、ここに扉の絵を描くの」
「はぁ」
「そしたら何か始まりそうじゃない?」
「え?」面食らった。「どうしてそうなる、」
「だから」藤本は口を尖らせて続けた。「そこかしこにある無用階段に、もし一筆加えたらどうなるかなって」
その実験、と藤本は云った。「レッツ・トライ」
何となく云わんとすることは分かってきた気がする……が。どうにも釈然としない。いや、階段だけの存在と云うのもおかしな話だ。そこに扉の絵を描くだなんて、余計におかしいだろう。おかしなことにおかしなことを加筆する。シュールな話だ。マグリットかエッシャーか。ダリってほどではなかろう。
不意に気付いた。マイナスの乗算はプラスになる。
「できるよね?」
「出来なくはないけど、ちょっとまずいんじゃないか」
「一晩で描いて」
「無理云うな」
「なんで」
「無茶だって」
「出来るんでしょ?」
「一晩って……真っ暗の中どうやって描くんだ」
「あ、そうか」
「準備も必要だし、バレたら怒られるだろ」
「それもそうだ」
「だから無理」
「うん」
分かってくれた。
「じゃぁ今度の金曜の夜に」
違った。
「話、きいてたんじゃないのか」
「うん。明かりとか安心して。絵の道具はそっちでお願い」
「ちょっとまて」
「自信ないの?」
「そう云う問題じゃない」
「だったらいいじゃない」
「良くないって」
「出来るんでしょ?」
「だから──」
「お願い」
「お前、伝説になるぞ」
「アイム・レジェンド」
太陽のように、にっかりと藤本は笑った。