101.(無用階段)
ノット・ア・ペインティング
抱えにくい形状に悪態をつきながら、川村伸男は校舎裏を歩いていた。中学校に入学したばかりで、初めての制服は少し大きく未だ馴染めず、それが余計に動きづらい。
五月の日差しは思いの外、強かった。
前を止めた詰襟は体温を上着の中に閉じこめた。クラスの中には制服を早々に着崩している者もいるが、なるほど、こんな日まで規則だの校則だの、真剣に取り合うこともないと今更ながらに思う。
スチールのゴミ箱は片手で持つと足に当たり、そのたびベコンバコンと鳴る。両手でかかえると湿った刺激が鼻をつく。誰だ、変なにおいを発するゴミを捨てたやつは。かと云って身体から放せば、やっぱり歩きにくい。焼却炉は学校敷地の武道館裏、いっとう隅にあり、そこまでえっちらおっちら運ぶのは掃除当番の仕事だ。週番制なので、金曜日の今日を最後にしばらく、掃除当番から外れる。
掃除班のジャンケンで負けた。
一斉に出した手は伸男以外全員パー。伸男はグー。
勝負はたったの一回、まるで示し合わせたかのように綺麗に決まった。爆笑するクラスメイトに、握った自分の右手を見て苦笑するしかなかった。
清掃前のホームルームが伸びたお蔭で、すっかり遅くなった。空のゴミ箱を抱える生徒とすら、すれ違うこともない。グラウンドからは運動部の掛け声。自分も早く切り上げ、部活に参加したかった。入部して既に二作目、描きかけの絵が残っている。伸男は美術部だった。
ベコンバコンと足をぶつけながら、武道館の角を曲がれば焼却炉が見える。伸男はそこに、同じクラスの藤本未希の姿を認めた。手に何かを持って、武道館の裏口に立っている。なんだろうと思いながらもその横を通り抜け、焼却炉の中へゴミ箱をひっくり返し、引き返した時も藤本はそこにいた。
手に持っていたのはカメラだった。
伸男は立ち止まると、ぽちっとカラーのホック、それから第一ボタンを外した。すいっとガクランの中を風が通り抜けるのを感じた。さっさとこうしていればよかった。
「おーす」なるべく自然にきこえるよう、声をかけた。
振り返った藤本は、伸男の姿を認めるとにっこり笑った。「おーす」
頬にかかるセミロングの髪を梳いて、耳にかける。
「なにしてんだ?」
「そっちは?」
「ごみ捨て」伸男は空のゴミ箱を見せた。「そっちは?」
「自主活動」手にしたカメラをみせる藤本。
「写真部? だっけ?」
藤本は首を振った。「写真部じゃなくて光画部だよ。わたしは入ってないけど」
そうかい。「自主活動か」
そう、と頷く藤本。
「なにか面白いものでも?」
「うん、トマソン」
「え?」
「トマソン」藤本が指さす。「無用階段」
武道館の裏には、五段の小さな階段がある。しかし、そこにあるのは階段だけで、普通ならばそこから館内へ通じる扉があるはずだ。てっきり裏口だと思っていたのは、この階段のせいだ。紛らわしいなぁ、もう。
「これのこと?」
「そう」
「無用階段?」
「入り口がないのに、なんでここに階段だけがあると思う?」
「さぁ」
「考えて」
「……転ばないように?」
あは、と藤本は笑った。白くて小さな歯が口元からこぼれた。「余計に転びそうだよ」
「この辺は傾斜になってるから、真っすぐ建てるのに必要だったんじゃないか?」
「そうかもね」藤本はカメラをかまえ、ぱちり、とシャッターを切った。「でも扉があってもいいよね」
どっちでもいい、と伸男は思ったけれども口には出さなかった。
「作ってる途中で変更があったりしたのかも」カリカリカリと藤本はカメラのフィルムを巻く。「みつけた時、写真に撮らなきゃって思ったんだ」
「ふぅん」
「天気が良くて絶好の撮影日和」
たしかに今日は、天気が良い。眩しいくらいだ。
藤本はぱちり、と再びシャッターを切った。見慣れない形のカメラだった。筐体は黒いプラスチック製で、どこなくチープに見える。まるでオモチャみたいだ。
カリカリカリとフィルムを巻きながら藤本は云った。「よしっ」
「終わった?」
「うん」
スカートのポケットにカメラを入れると、藤本は歩き出した。その隣を、伸男も並んで歩き出す。バコンとゴミ箱をけっ飛ばしてしまった。軽くなったゴミ箱の中で音が反響した。
「ねぇ」藤本が前を見たまま云った。「あそこに扉を作ったら、どこかにつながりそうじゃない?」
なにを突然。「マンガじゃあるまいに」
「あの階段こそマンガみたいだと思わない?」
そうきたか。「学校の七不思議だ」
「怖い話は好き?」
「好きと云うほどじゃないけど、」
つまんない、と藤本は口を尖らせた。「理屈っぽいよ」
そんなことを云われても。
伸男はちょっと動揺した。理屈っぽいだなんて。
「怖いものってないの?」
伸男は少し考えて、云った。「子供の頃、鏡が怖かった」
「へぇー」興味津々と云った様子で、藤本が云う。「どんなところが?」
「なんか、どこか違うところに繋がっていそうで──」
「合わせ鏡とか?」
「あれは怖い」
「今は?」
「子供の頃の話だ」
「今は子供じゃないの?」
「藤本は?」
「わたしは子供でいいかな。じゃ、また明日」
手を振る藤本につられ、伸男も手を振り返していた。ゴミ箱を抱え直して、明日が休日であることをぼんやり思った。