そうだ! 昔話をしよう!(25)
「あれぇ? 九重先生じゃないですか? どうしたんですか? こんな所まで?」
茫然と立ち尽くす雄太と、その対面にいた自分の先生に当たる女性……九重先生を前にして、里奈は笑みのまま歩み寄った。
程なくして、棒立ち状態の雄太にビニール袋を手渡す。
「今日の夕飯ね。とりま運んどいて」
「ああ……分かった」
里奈から手渡されたビニール袋を手にした雄太は、間もなくボロアパートの室内へと足を向けた……その時。
「先程の件……しっかりと考えて下さい」
九重先生はそうとだけ口にし、その場を後にした。
「へ? 先生! 折角だし、ウチに上がって行きませんか~?……って、ちょっ、九重先生? せんせ~!」
直後、スタスタと歩き出してしまう九重先生に声を掛ける里奈がいたのだが、見事に無視されてしまった。
「……? ど~したんだろ?」
里奈の頭に大きなハテナマークが浮上した。
何か用事があったみたいなのだが、何をしに来たのかサッパリである。
ついでに言うのであれば、
「ねぇ、雄太? 先生って何しに来たか分かる?……なんか、アンタに用事があった様に見えるんだけど?」
用事の矛先は何故か雄太であった事だけは、なんとなく分かる。
去り際に「先程の件……しっかりと考えて下さい」なんて感じの台詞が聞こえたからだ。
とどのつまり、先程の件とやらが用事となる。
果たして、雄太は言った。
「お前は天才過ぎるぐらい天才だから、俺は邪魔なんだとさ」
「………はぃ?」
「俺が足かせになってて、本当ならピアノに専念出来る筈なのに、それが出来ないから……お前の前から消えて欲しいって言う話しだ」
スパンッッッッ!
スリッパが飛んだ。
入口にあったスリッパの片方を投げたのは里奈である。
「馬鹿なのっ!」
眉をこれでもかと言わんばかりに釣り上げて叫んだ。
「……それは先生の事か? それとも俺か?」
「先生に決まってんじゃない! 大体、先生も買い被り過ぎなんだよ! あたしの事を稀代の天才やらなにやらって、無駄にもてはやして来てさ!」
淡々と口だけを動かす雄太を前に、里奈は顔を真っ赤にした状態で憤然と捲し立てた。
ここ一年では最大級の怒りっぷりである。
いつもの雄太なら苦笑しか出来ない。
……いつもの雄太なら。
「先生が言った事が、本当だったら……どうなんだ?」
雄太は尋ねた。
いつになく神妙な面持ちで。
「……何言ってんの? そんな事ある訳……」
ないじゃない。
嘆息交じりに口を動かす里奈であったが、その言葉を全て口にするよりも先に、
「あるから来たんだろ!」
雄太の叫び声が周囲に轟いた。
そこから雄太は再び口を動かして行く。
「お前は国内はおろか……世界でも憧れる、唯一無二の天才なんだよ! そこに気付いてないのは……当人のお前だけだ!」
「……っ!」
雄太の言葉に里奈は息を飲んだ。
いつにもまして真剣だった雄太の姿に……その語気に、思わず圧倒されてしまった。
「ちょっ……どうしたの雄太? そんな、マジになっちゃって……」
「そりゃ、マジにもなるだろ! お前の未来の話しだぞ? お前のこれからの話しだ! 俺だって真剣になる!」
その隣に……自分は立てない未来でも、尚。
彼氏として真面目に考える必要性はある……そう、雄太は考えた。
すると、里奈の表情も変わった。
「……それ、本気で言ってる?」
明らかに空気が変わり……里奈も真顔にならざる得ない状態だと確信した。
同時に納得する。
あの先生は……あたしの人生を狂わせる気だ!
「九重先生に何を言われたのかは知らないけど、あたしの人生はあたしの物。他の誰彼なんて関係ない」
「本当ならそれで良い話しだ。そこは理解出来るよ」
真剣な眼差しで、訴える様に口を動かす里奈に、雄太は目線を下にした状態で返答する。
そこから続ける形で答えた。
「それが「俺の様な一般人」だったらな?」
この台詞を耳にした瞬間、里奈の感情が怒髪冠を衝く勢いで大爆発した!
「大馬鹿っ! あたしも一般人だと言ってるでしょ! 何回言わせれば気が済むんだよったく! あ~あ……こんな馬鹿な彼氏持つと苦労するわ~?……いっそ、別れちゃおうか?」
いきり立った状態のまま、己の感情を全てぶつける形で口を動かす里奈は、眉間に皺を寄せた状態で両腕を組みながら言ってみせる。
里奈の必殺技「○○しなかったら別れる」が炸裂していた。
これは彼女にとってのワイルドカード。
少し前にも言っているが、口喧嘩をした時に里奈が良く使う常套手段であった。
もちろん、雄太もこの事は知っている。
もう、うんざりしてしまうレベルで良く知っている。
だが、今、このタイミングで口にしては行けない台詞だった。
雄太は思ったのだ。
彼女は天才だ。
誰もが羨む逸材だ。
そんな彼女を独り占めして良いとは思ってない。
……決して良いとは思わない。
けれど、それでも里奈を独占しても良いと自分に言い聞かせていたのは……里奈が自分を好きで居てくれたからだ。
自分と一緒に居て欲しいと願ってくれたからだ。
だから……だから。
もし、彼女が自分から離れたいと願うのであれば……その時は、笑顔で言おう。
「ああ……そうだな、別れるか」
言った雄太は、自分でもビックリするまでに満面の作り笑いを見せて答えたのだった。