そうだ! 昔話をしよう!(24)
ガチャッ!
呼び鈴を耳にし、自宅玄関のドアを開けた雄太の先に居たのは……四十代程度の女性だった。
「………どなた様?」
頭にハテナマークが浮上した。
ハッキリ言って誰なのか分からない。
「失礼しました。私は、あなたの彼女……八代里奈さんの専任としてピアノ科に在籍している者です」
「………はぁ、なるほど」
慇懃なまでに深々と頭を下げてから礼儀正しく自己紹介して来る女性を前に、雄太はポカンとした顔をするしか出来なかった。
自己紹介を聞く限りだと、里奈の先生に値する人なんだなぁ……と言う事だけは分かる。
しかし、それ以外の事はサッパリだ。
果たして、彼女はこんなボロアパートにどんな用事があったと言うのだろう?
「それで、どの様なご用件でしょう?」
愛想笑い程度に笑いつつ、比較的友好的な口調で尋ねる雄太がいる中、先生と思われる女性は真剣な顔のまま声を返して来た。
「特にお時間を取らせるつもりはございません。この場で率直にあなたへとお伝えします……彼女と縁を切っては貰えませんか?」
「………は?」
先生の言葉に雄太は再びポカンとなってしまった。
突拍子がないのだ。
「い、いきなりなんです?……そりゃ、里奈とはもう三年近い付き合いにはなりますが……」
なんだか良く分からない人が、やっぱり良く分からない形で、いきなり別れろと言って来るとは思わなかったのだ。
しかし、先生がどうしてこんな事を言っているのかは分かる。
……心が痛くなるぐらい……痛烈に。
「分かりませんか?……そうですか、分かりませんか」
「そうですよ……はは、冗談を言うにしても、もっと別な何かを……」
言って下さいよ。
そう答えようとする雄太がいた刹那。
「冗談でこんな事を言うと思ってますか! あなたは何も知らない……知らな過ぎる! 彼女の才能を! 常識を超えた旋律を奏でる、彼女の人智さえも超えた才覚を!」
先生は声高にがなり立てる形で雄太へと叫んだ。
「………」
雄太は無言になった。
反論する事は出来る。
出会って三年……付き合って二年経っているのだ。
そんな事は、彼女の口からわざわざ言われなくても分かっている。
けれど……好きだから。
大好きだから。
それだけの理由で、里奈と……好きな女と一緒に居てはいけないのかよ!
そう言いたい気持ちはあった。
物凄くあった。
しかし……眼前にいた先生の情熱が……その語気が雄太を黙らせてしまった。
そこから先生は、コーチとして里奈と向き合って来たこれまでの事を話して行く。
途中、部屋に招き入れようともしたが……すぐに帰るとの事で、そのまま立ち話と言う形になってしまったが……雄太にとっては衝撃的な話しだった。
里奈のコーチになったのは去年。
当初は、周囲にもてはやされているだけの小娘だと思っていたらしい。
一応、先生も国内では有名なピアニストの一人だったらしく、まだプロにもなっていない生意気なひよっこに過ぎない里奈の実力など、大した事ないと思っていた。
それが自分の思い上がりであった事実を知るに至ったのは、そこから数日を必要としなかった。
里奈は天才だった。
通常、譜面を正確に弾く事が出来れば十分な腕前。
譜面通りにしっかりと弾ければ、コンクールで優勝する事だって夢ではないからだ。
しかし彼女は違った。
譜面を完璧に弾いた上で……更にプラスアルファを入れて来る。
音に……色彩が宿る。
まるで魔法が掛かっているかの様に……だ!
里奈のピアノを聞いた人間は、時に自分の無力を知って落ち込み……時に、素晴らしい音響の世界を知り、ピアニストの世界に憧れた。
美しくも繊細に……時には荒々しくも弾く事が出来る彼女のピアノは、まさに虹色の旋律と形容出来た。
彼女は国内でピアノを弾く人間にとって、畏怖の対象であり敬愛の対象であり……何物よりも尊い憧れの存在にさえ昇華した。
里奈を打倒しようと猛練習する者が生まれた事で、今のピアノ界隈ではかつてないまでに天才と称される存在が多く生まれている……らしい。
らしい……と述べたのは他でもない。
雄太は知らなかったからだ。
そんな話しを里奈から聞いた事すらない。
ともすれば、当の本人である里奈には興味もない話しだった為、雄太の耳には入らなかったのかも知れない。
果たして、先生は答えた。
「彼女の才能は……コーチである筈の私ですら、何を教えて良いのか分からないまでに超越した……誰も辿り着く事の出来ない、前人未到の実力を誇示した逸材……ううん、違う。ピアノの神様に心底愛された空前絶後の偉人になります……こう述べれば、アナタの御理解を得る事が出来ませんか?」
「………」
先生の言葉に、雄太は口をつぐんだ。
分かってはいた……つもりだった。
里奈はピアノの天才で、色々な人から沢山の喝采を浴びる凄い人間だと言う事は。
それでも彼女と一緒に居たのは、里奈が自分を好きでいてくれるからだ。
もし、これが自分の独りよがりであったのなら、里奈との関係はとっくに終わっていただろう。
自分が里奈を嫌いになる事はない。
ここは誓ってないと言える。
これからもずっと一緒に居たいと思っている。
けれど……里奈が自分の前から離れたいと願ったのなら……その時は。
「……雄太?」
声がした。
「……っ! 八代さんですか?」
そうと、コーチらしい女性の言葉にある通り、声の主は里奈の物だった。
近々行うプチコンサートのリハをやったついでに買い物もして来たのだろう里奈は、両手に食材が入っているビニール袋を手にした状態で、ちょっと不思議そうに小首を傾げながらも雄太達に視線を送っていた。