そうだ! 昔話をしよう!(8)
その後、ドイツ行きの話が確定となり……パリからミュンヘン行きの汽車に里奈と音楽家……そして、その関係者各位が乗ろうとした所で、里奈は言う。
「雄太、あんた何してるの? 列車が行っちゃうでしょ!」
……と。
なんでこんな事を言ったのか?
理由は至極単純。
里奈はドイツに向かおうとした。
……今までの旅の延長で。
そうなのだ。
ドイツに行きたいと思ったのは間違いない。
煌びやかな演奏の舞台に立ちたいと思ったのも、里奈の本心だ。
その部分を包み隠す事なく雄太にも答えた。
何故なら、雄太には一切の隠し事をしないから。
しかしながら、ここに大きな勘違いと言うか、差異が生まれていた。
音楽家は、里奈だけを連れて行きたかった。
合奏の才能もさることながら、里奈は息を飲む程の美貌を持つ才色兼備の持ち主だ。
神は二物を与えないと言う言葉を取り消さなければならないまでの美しさと繊細さと才能の持ち主だった。
他方の旦那は、凡百に埋もれる無才の青二才。
神から見放されたかの様に平凡な人間だった。
故に許せなかった。
こんな夫と一緒にいる事は、里奈にとって百害あって一利なしだ!……と。
結果的に、音楽家は雄太にのみ直談判する形で説得を試みた。
彼女の未来を最優先にした決断をしてはくれないだろうか?
この直談判を音楽家から聞いて、色々と悩みあぐねていた頃……偶然、ドイツ行きの話をニコニコ笑顔で語り始める里奈がいた。
里奈は飽くまでも旅の延長でドイツに向かうと言う前提で雄太へと話をしていたのだが、雄太は音楽家の話……つまるに彼女の未来の為、ここで妻と別れて輝かしい演奏の世界を見守ってくれないか? と言う話を前提とした考えの上で、里奈の話を耳にしていた。
嬉々として話す里奈の顔は……とっても輝いていた。
自分が自分で居られる、ちゃんと自分の居場所を見つけて、存在意義を確立させた事を……雄太は確信した。
こうして、ドイツ行きが確定した。
……二人の中にあった、大きな勘違いを残したまま。
果たして、見送り組だった雄太はミュンヘン行きの汽車を、駅のホームで暫く見据えていた。
「…………くそ」
なんだか涙が出てしまった。
恰好悪いったらない。
同時に思えた。
ああ、これが振られた男の末路か……と。
彼の顔面に、大きめのボストンバッグが飛んで来たのは、ここから三秒後であった。
ボムッ!
「うがはぁぁぁっ!」
見事にクリティカルヒットした雄太は、思わず謎の悲鳴を上げてしまった。
「この! クソ男! 馬鹿亭主! 妻を置いてパリで何する気だったの? サイテーなんですけど?」
ボストンバックの一撃により、ホームでノックアウトしてしまった雄太がいる中、憤然と捲し立てる里奈の姿があった。
もう、御冠である。
里奈の感覚で行くのなら、ドイツに雄太が来るのは当たり前だった。
これまでずっとそうして来たのだ。
日本から始まり、ロシアを横断して北欧へ向かい、そこからあれこれと寄り道しまくってイングランドも経由してウェールズにも足を運び、再びロンドンに戻ってパリへ……とまぁ、ともかく結構な旅をして来たのだ。
なにより、二人は夫婦だった。
形式的な夫婦と言えば相違ないが、ちゃんと婚姻届も受理した上での夫婦なので、社会的にもれっきとした夫婦と言えた。
そんな旦那が、いきなりミュンヘン行きの汽車に乗らずにパリから何処へと単身で旅立とうとしていた。
これが、里奈にとって大きな裏切り行為にすら思えた。
「あんたねぇ! 人を何だと思ってんの? 取り敢えず何発かぶん殴らないと気が済まないんだけど?」
「いやいやいや、待て? 待つんだ里奈! これはお前の人生にとって大きな岐路だったんだ! ドイツに行ってさ? 色々と豪華な舞台とかで活躍出来るなんて、凄いじゃん? 俺、要らなくね?」
「いるでしょ! 必要でしょ! そもそも大戦で負けて分裂した西ドイツは、パリに華やかさで負けてるからね!」
時代考証を口にするのを忘れていたので、少し備考を入れるのだが……現時点での西暦は1965年。
余談だが、当時のミュンヘンは西ドイツに当たる。
東ドイツはベルリンより東側にあるので、結構小さい。
尚、西ドイツはパリに華やかさで負けてるとかのたまってるが、そんな事はないとドイツの人達の名誉の為に言って置こう。
閑話休題。
「……置いてかないでよ……一緒に居てよ……もう」
最終的に、里奈は雄太にしがみつき……泣き声のまま言葉を吐き出していた。
本気で怖かった。
予想もしない状態だったから……と言うのも大きい。
これまで一緒で、ずっと一緒で、これからも一緒と言えた最愛の旦那が、自分の予想もしない所で突発的に居なくなる所だった。
最初は冗談だと思った程だ。
それが、雄太は汽車に乗らず……旅行用のバッグも持ってない。
この瞬間……眼前が真っ暗になった。
「嫌だよ……雄太ぁ……私、ぐすっ……もう、アンタが傍に居ない生活なんて、ぐすっ……考えられないんだからぁっ!」
汽車のドアが、駅員によって閉められる寸前の所で、刹那的に汽車から外に降りた。
咄嗟の判断かつ、とんでもない身のこなしであったが故に、周囲にいた音楽家と関係者各位の人間が里奈を止める事が出来なかった。
「………なんか、ごめん」
泣きじゃくりながらもしがみついて来た里奈に、雄太は一言謝ってみせる。
同時に思えた。
どうやら、まだ自分の存在は里奈にとって必要みたいだ。
「そうだよぉ……ぐすっ! 反省しろぉぉぉっっ! 私……私、本気で怖かったんだから!……うぅ、うぇぇぇんっ!」
その後、里奈は駅のホームで暫く号泣した。