そうだ! 世直しをしよう!(27)
「彼女はとても優秀な人間でした……自分の様な夢も希望もない、なんの為に生きているのかすら分からない様な人間とは違い、キラキラ輝いてました。有名なピアニストで、海外の話とかもあったと言うのに断って……自分の生活費が稼げればそれで良いなんて言って……俺の隣に居てくれました」
「………」
「ピアノを始めたのは親の夢であり、希望だったそうです。そして、彼女は親の夢を一身に背負って生きていたのですが、自分の夢も諦められなかった」
「どんな夢だったのですか?」
「そうですね……これ、夢って言うのはちょっと語弊がある気もするんですけど……」
そこまで答えた雄太は悩む様な顔を作ってから視線を虚空に向け、少し間を置いてから声を吐き出した。
「普通に生きる事、らしいです」
「普通に、生きる……事?」
雄太の言葉を聞いてセシアは大きく瞳を開いた。
普通に生きる事。
これは定義が難しい。
何を以て普通とするのか?
何を基準にして普通と形容するのか?
全く以て皆目見当も付かない。
故にセシアは興味を抱いた。
「それはどう言う事ですか? 人によって普通や常識は異なるではありませんか? そんな曖昧であやふやな夢を持った人なんて、聞いた事がありませんよ」
「そうですよねぇ……俺も、彼女の話を聞いた時は、思わず吹き出しそうになりましたよ。そんな夢があるもんか……って、言いそうになりました。なりましたけど……言えませんでした」
答え、雄太はやんわりと微笑んでから言った。
「凄く真剣な顔で言うんです。私は普通の生活がしたい。普通にあんたと一緒に居て、普通にあんたと結婚して、普通に子供を産んで、育てて……なんて事ない、そこら中に沢山ある普通の家族を作りたいだけだ!……って」
「………」
「おかしな話だとは思うんです。冷静に考えたら、それは夢と表現するには少し敷居が低すぎる物だと思ったんです……だけど、俺は彼女を笑わない……笑う事なんて出来ない。きっと心からの本心で俺に伝えたかったに違いないのだから」
「愛されていたんですね」
当時を思い出すかの様に答えて行く雄太に、セシアはやんわりと笑みを作りながら声を返した。
ここに来て気付く。
いつの間にか、泣きべそだった自分の顔に笑みが戻っていた事に。
「それで……その夢なのですが、彼女の夢を実現させる為には俺が必要でした……普通の家庭を築くには普通の旦那が欲しいですからね? まぁ、俺は極々平凡な男です。厳密には並以下ではあるのですが」
言って雄太は苦笑した。
特段将来の夢もなく、大学を卒業したらテキトーな所に就職出来たら御の字だった雄太なのだから、おおよそ一般的な「普通の家庭」とやらを作れたかどうかも不透明であったからだ。
「彼女は当初、親の夢と希望を第一に生きてました。それが自分の夢だとさえ言ってました……が、色々な偶然と奇跡が起こって付き合い始めて、そこから一年程度経った辺りから彼女の夢は親の夢とは違うベクトルを紡ぎ出して……三年が経過した頃には、全く違う物になって行き……」
答え、雄太は言葉を止めた。
心が軋んだ。
……分かっている。
もう、分かっている……過去の事だ。
23年も経過している、埋没した追憶の話だ。
だが、それでも雄太は、思わず言葉を止めた。
23年も経過しているのに……それでも、尚……心が痛かった。
果たして、雄太は答えた。
「そして、彼女の夢はついえました」
瞳に大粒の涙を流して。
「………」
セシアは何も言えなくなっていた。
ずっと、耳を傾ける事しか出来なくなっていたのだ。
「ピアニストではなく、ピアノ教室の先生になると言う話を両親に伝える為、里帰りで高速バスに乗ったんです。バスに乗る所までは見送りに行ったんですよ……それで、戻ったら美味しいの作るね……って、彼女は言ってくれたんです。俺も「じゃあ肉じゃがが良いなぁ? やっぱ、お前の肉じゃがが一番好きだしさ?」とかって……って、言って……ぅぅ……くぅ」
言葉が出なくなってしまった。
大昔の事なのに、未だ頭から離れない。
離れられない。
自分でも思う、女々しいと。
「彼女の没報を聞いたのは、ここから半日後でした……高速道路で煽り運転して来た車のせいで目的の車線に入る事が出来ず、強引にサービスエリアに向かおうとしたバスがサービスエリア付近の分離帯に激突して……それで、横転したバスに乗っていた彼女は、最寄りの病院に運ばれたらしいのですが、救急搬送されていた時点で既に意識不明の重体だったらしく、そのまま……二度と目覚める事はありませんでした」
「とても、お辛い過去をお持ちなのですね」
涙をぬぐい、鳴き声をかみ殺しながら再び口を動かす雄太に、セシアは目線を下に落としながら声を返した。