8.胸の棘・後編
二人が騎士団宿舎を訪れると、ベルナールが所属していた隊の者達が出迎えてくれた。
元同僚が来る事を知って、本部で待つか宿舎で待つかを話していたところらしい。それを聞いて、行き違いにならなくて良かったと互いに胸を撫で下ろす。
ぐっすり眠っているマイケルをベルナールから引き取った騎士達は、誰もが安堵したような表情を浮かべ、皆が彼を気に掛けていた事が窺えた。
「ベルナール。よく来てくれた」
「小隊長殿!」
「手紙のやり取りはあったが、直に顔を合わせるのは退団した日以来か。元気そうで何よりだ。こちらが噂の……?」
「噂になっているかは存じませんが、ベルナール様の婚約者のウルスラ・アッシュフィールドでございます。どうぞよしなに」
小隊長と呼ばれた壮年の騎士をはじめ、騎士達は元同僚の婚約者であるウルスラに興味津々といった様子だった。
騎士達の中には貴族も多いので『氷の伯爵令嬢』という存在自体が気になった者もいるのだろう。
ウルスラは社交界に出る度にあまり良くない意味で視線を集める事が多かったので、初対面の人間から視線を向けられる事には慣れている。
ただ、ウルスラの貴族として長年培った肌感覚が、今この場で己に向けられている視線は悪いものではなく、純粋な興味や好奇心からくるものだろうと判断していた。
正直レディに対して不躾ではあるが、不快でもない。
むしろ騎士達に囲まれて何やら色々言われているベルナールは、普段よりも少し幼く見えて大変可愛らしいので、そんな姿を見られただけでも非常に満足している。
この騎士団で、ベルナールは周りの人間からとても慕われていたのだと、この場所を初めて訪れたウルスラにもよくわかるひと時だった。
その後、ベルナールは騎士達にウルスラを正式に紹介し、改めて結婚式の日程を伝えてから二人は騎士団宿舎をあとにした。
「すまない。疲れただろう」
「いいえ。問題ございません」
馬車を待たせている門までの道のりを歩かせた事に謝罪するベルナールに対し、ウルスラは平然と首を振った。
元より乗馬などをよく嗜み、父についてアッシュフィールド領内の視察も行なっていたウルスラは、おそらく同じ年頃の女性よりも幾分か体力がある。この程度の距離は散歩の範疇だ。
なのでそのように答えたのだが、ベルナールは肩を竦めて苦笑した。
(きっと、私の表情が変わらないから真偽のほどが伝わらず、ベルナール様はお困りになったのだわ)
婚約者が浮かべた表情に、ウルスラはそっと己の頬に手を当てて胸の中で思う。
家族や屋敷の使用人達のように長く付き合いがある者は、ウルスラが無表情であっても、声に抑揚がなくても、発した言葉にどのような感情が含まれるのか大体で察してくれる。
社交活動に消極的で家族と接する事が多かったから、ウルスラは無意識に家族に甘えていたのだと痛感し、そしてこれからはそれでは駄目なのだと意識を改めた。
(今後は今までのように察して貰える事ばかりを期待してはいけないのよ)
動き出した馬車の中でウルスラはじっと思考する。
伝えなければならない事、そしてその伝え方。それから。
(……伝えなくても良いかもしれないけれど、私がベルナール様に知っていてほしいと思う事も、あるわ……)
マイケルとの邂逅が脳裏を過ぎると、ちくりと胸の奥が痛んだ気がして右手を胸元に当てる。
言うべきか。言わざるべきか。ウルスラが逡巡したその時、何やら考え込んでいる様子のウルスラに気付いたベルナールが口を開いた。
「大丈夫かい。騎士団で質問責めにされていたし、やはり疲れたのでは?」
「いえ、問題ございません」
咄嗟に問題ないと答えたウルスラは、少しの間、目を伏せて口を噤んでいたが、すぐに顔を上げて向かいに座るベルナールを見詰めた。
その右手は、何かに耐えるように胸の辺りを軽く掴んでいる。
「あの、ベルナール様」
名を呼ばれたベルナールも常とは違う雰囲気を察し、居住まいを正してウルスラを見詰め返した。
馬車の中でもなお鮮やかな緑の瞳に、ウルスラは一瞬臆しそうになったが、それでも気力を振り絞ってそっと唇を動かす。
「……今お伝えする事ではないかもしれませんし、もしかしたらそもそもベルナール様にお伝えするべきではない事かもしれません」
「何かな」
ベルナールが続きを促せば、ウルスラはピンと背筋を伸ばして続けた。
「マイケル様と初めてお会いした時の事です」
「……何かトラブルでも? そんな風には見えなかったが」
「問題というのなら、それは私の心の有り様です」
「心?」
ウルスラの言葉にベルナールは少し首を傾げて目を瞬かせた。
自分が診察を受けている間にマイケルとウルスラが出会った事は話の流れで察していたが、応接室で話す二人の様子にも特に何か問題があったようには思えない。
心の有り様、とウルスラは言った。
しかし、それが何に結び付く言葉なのかベルナールにはさっぱり見当が付かなかった。
「あの時、マイケル様は私にベルナール様のお怪我は自分のせいなのだと仰いました。それを聞いた時、私は色んな事を思ったのです」
ウルスラは珍しくうろうろと視線を彷徨わせながら、己が何を思ったのかを伝える為に言葉を紡ぐ。
伝える事が正解なのかは解らないが、今伝えなければと胸の奥で何かが激しく叫び声を上げていた。
「……マイケル様があの場にいなければベルナール様はお怪我をなさらなかった。きっと今も騎士を続けてらっしゃったのだと思いました。同時に、マイケル様があの場にいたからこそ、私はこうして貴方様の婚約者になれたのだとも思いました。ベルナール様はお怪我でとても辛い思いをされたのに、私は例え一瞬でも、ベルナール様がお怪我をされた事実を喜んでしまいました。自分の今の立場の為に、貴方様の不幸を喜ぶような、そのような浅ましい事を、私は……」
「アッシュフィールド令嬢……」
「ベルナール様……。私は伯爵夫人としてお仕えする覚悟ならとうに出来ています。けれど、このような事を考えてしまう私は、本当にレインバード家に相応しいでしょうか? このように浅ましい私でも、レインバード家に受け容れて頂けるのでしょうか……?」
言葉の最後の方は、少しだけ掠れて震えていた。
ウルスラの無表情の中で、ヘイゼルの瞳だけが不安に揺れているのを認めるや否や、ベルナールはウルスラの腕を引き、その身体を強く抱き締めた。
「あっ」
「もういい。それ以上はやめなさい。ウルスラ」
ベルナールの腕の中でウルスラは驚きに身を硬くし、ただただ困惑する。
彼と顔を合わせてからというもの、抱擁などされたのは初めてだったし、こんな風に名前を呼ばれたのもまた初めてだった。
どうして私はベルナール様に抱き締められているのだろうという疑問で頭をいっぱいにしていたウルスラは、ベルナールが唸るようにすまないと呟いたのを聞いて、更に身を強張らせた。
(どうしてベルナール様が謝罪を口になさるの。至らないのは私の方で……)
しかし、それを口にする事よりも早くベルナールが次の言葉を発した。
「私がもっとしっかり事情を話していれば、君にそのような不安を抱かせる事はなかったのに」
「ベルナール様……?」
「違うんだ。いや、確かにあの事故がなければ私はまだしばらく騎士を続けていただろうが、いずれは家に戻り弟と立場を入れ替える事になっただろう。私も怪我をした当初は騎士を辞める事に戸惑いも葛藤もあった。しかし、今は、当主の座を継ぐ事も、弟を留学に送り出してやれる事も、君という婚約者を得られた事も、全てに感謝している。だから君がそのように思い悩む必要はないんだ」
腕の中にいるウルスラにはベルナールの表情は見えなかった。
けれど彼の言葉に嘘がないのは痛いほどに伝わってきた。
震える指先でベルナールの胸に縋り、確かめるようにウルスラは呟く。
「……私は、ベルナール様の婚約者でいてよろしいのでしょうか……」
「あぁ。私の婚約者は君以外、ウルスラ・アッシュフィールド以外考えられない」
その返答を聞いたウルスラは、胸の奥が強く痛むのを確かに感じた。
(胸が痛い。いいえ、胸の奥が……熱い)
そしてその刹那、ウルスラはまるで天啓を受けたかのように理解したのだ。
(あぁ、私はいつの間にかこんなにもこの方を愛してしまっていたのだわ)
最初は騎士への憧れだと思っていた。
将来、レインバード伯爵の妻となってレインバード家の為に尽くそうと思ったのは、こんな自分を選んでくれた事への義務だと思っていた。
実際に会って言葉を交わす内に、もしかしたら恋かもしれないと思い始めた。
そしてベルナールの隣にいても良いのだと、約束された未来を何があっても手放したくないと思った。
己の抱く初めての感情に名前を付けるのは難しく、それが恋であるとウルスラは信じ続けていたのだ。
けれど、今この胸の中にある感情は、恋というにはあまりに重くて強くて、──烈しい。
(私はベルナール様の隣にいて良いのね……)
罪深いと思っていた己をベルナールに許されたその事実に、胸の奥深くを苛んでいた棘が少しずつ溶けて消えていく。
同時に、緊張で冷えていた指先にも幾らか温もりが戻った気がした。
まだベルナールはウルスラを膝の上に抱き上げたままだったが、気恥ずかしさよりも居心地の良さが勝ってきた頃、不意にベルナールが問い掛けた。
「ウルスラ。君はもし私が騎士を続けていたらどのように過ごしていただろうか」
「領内の修道院に身を寄せて、神に仕えながら余生を過ごしたと思います。最初はそのようにするつもりでしたから」
「そうか。その場合、私は数年遅れて騎士を辞めただろうが、それでも妻にと望むのは君であっただろうな」
「ただの修道女を妻になさるおつもりですか」
「ただの、かはわからないが、そうだな。修道院まで赴き君に求婚するはずだ」
「……さようで」
何だかすごい事を言われた気がする。
顔を上げていられず、思わず俯いたウルスラは耳どころか頸まで赤く染まっていたが、鏡もない馬車の中ではそれに気付くのはベルナールだけだった。
ベルナールは大きく息を吐くと、この際だから言うがと前置きしてから口を開いた。
「私だって君に伝えてはいなかったが、複雑な思いは抱えている」
「それは何かお訊ねしても?」
「……君の元婚約者の事だ。一発殴ってやらなければ気が済まないと思っているが、彼の行いがなければ私は君を娶ることは出来なかっただろう? それに結婚したら彼は義弟になる。非常に複雑な気持ちだ」
ベルナールがそのような事を思っているだなんて考えてみた事もなかったので、ウルスラはひどく驚いて一瞬言葉を忘れた。
ウルスラは、自身の婚約破棄については諸手続きの面倒臭さに辟易はしたけれど、悲しみだとかそんな感情は一切持たなかったからだ。
(マイケル様とベルナール様にはよくお話しする時間が必要だなどと思っていたけれど、本当にきちんと話をする必要があったのは私達なのではないかしら)
自分達の間には、まだ互いに知らない事が多過ぎる。
婚約者だからと言ってお互いに全てを知り尽くしている必要はないものの、今後結婚して共に生きていく相手なのだから他の人より多くを知っていたいとは思う。
ウルスラは身体の力を抜いてベルナールの肩口に頭を預け、どうしようかと思案した。
そして窓の外に見える空に、今にも降り出しそうなどんよりとした雲が広がっているのを見て、そうだわと閃いた。
「ベルナール様。ひとつ、私の我が儘を聞いては頂けませんか」
「私に叶えられる事なら何でも言ってくれ」
「今日、当家の屋敷にお泊まりになって頂きたいのです。お天気も崩れそうですし、ゆっくりお話したい事もあって……。生憎、本日父は不在にしておりますが、私が精一杯おもてなし致します」
後継者教育で忙しくしているベルナールだが、確か今日は他に外出や面会の予定はなかったはずだ。
ウルスラも婚約披露の夜会を終えたら領地に戻る事になっているので、今日を逃せば今後スケジュールを調整するのは難しいかもしれない。
だからこそ今日のうちにゆっくりと話をしておきたい。
ウルスラはそう考えたが、ベルナールは僅かに目を見開いて驚いた顔をした。
「……アッシュフィールド伯爵が不在なのに、私がそちらの屋敷に泊まるなど許されるだろうか……」
いくら婚約者同士であっても、伯爵不在の屋敷に宿泊するのはいかがなものかとベルナールは持ち前の生真面目さで考えたが、婚約者が我が儘を口にするのはこれが初めてである。
出来ることなら叶えてやりたいと、更に考える事しばし。
ベルナールはわかったと頷き、アッシュフィールド邸についたら着替えを取りに行かせるために遣いを出したいとウルスラに言った。
「そうだな。着替えの件は遣いを出せば良いとして、話をするにしても必ずドアは開けておくし、ドア前に護衛騎士を立たせておいてくれて構わない。それとも侍女を同席させた方が良いだろうか」
「それでベルナール様の憂いが拭えるのであれば、すべてそのように致します」
こくりとウルスラが頷くと、ベルナールは続けてそういえばと問い掛ける。
「それで、君はどんな話をしたいのだろう」
「それは……」
ウルスラがその問いに答える前に馬車が停車し、御者が屋敷への到着を告げた。
結局王宮からの帰り道の殆どをベルナールの膝の上で過ごしてしまったと慌てて身を離したウルスラを、ベルナールはゆっくりとした動作でエスコートして馬車からの降車を手伝う。
地面に降り立ったウルスラは少し皺になったドレスの裾を払い、背筋を伸ばしてベルナールを振り返った。
「ベルナール様。何の話をしたいのかとお訊ねでしたね」
「あぁ」
二人並んで歩き、使用人によって開かれた屋敷のドアをベルナールのエスコートで潜りながら、ウルスラは挨拶代わりの天気の話でもするかのように、ただ淡々と先程の問いに答えた。
「今後の為に色々とお話したい事はあるのですが……、まずは何故私の表情がこのように変わらないのか、という事をお話したいと思っております」
「……っ!」
ウルスラが言い終えた瞬間、二人の背後で重い音を立てて屋敷のドアが閉まる。
(……私は今からどんな話を聞かされるのだろうか……)
ひゅ、とベルナールが息を呑んだことに、隣を歩くウルスラは全く気が付かなかったようだった。




