7.胸の棘・中編
「──レインバード先輩が怪我をしたのは、僕のせいなんです。ですから謝罪を……」
その言葉を聞いた時、ウルスラは咄嗟に何かを言おうとして唇を動かした。だが、結局何も言う事が出来ず、唇から漏れたのは微かな吐息だけだった。
胸の奥でドクドクと鼓動が早まるのを感じながら、ウルスラは平静を保とうと深く息を吐く。
僅かに目を伏せて少年へ視線を落とせば、マイケルは青い顔をしてびくりと大きく肩を跳ねさせた。
これはよくある事なのだが、もしかしたら、ウルスラの無表情を怒っていると捉えたのかもしれない。
先程の強い風で乱れた前髪を手櫛で整え、ウルスラはこほんと一度咳払いをした。
「初めまして。私はウルスラ・アッシュフィールド。ベルナール・レインバード様の婚約者です」
「あ、初めまして。改めまして、僕はマイケル・アストンと申します」
「ご挨拶ありがとう存じます。……さて、マイケル様」
「ぅえっ、あっ、は、はい!」
「ベルナール様は現在医師の診察を受けておられます。時間が掛かるようですから、どうぞ中でお待ち下さい」
すっと医療棟の入り口を手で示したウルスラに、マイケルはとんでもないとばかりに勢いよく首を振った。動きに合わせてふわふわの金髪も揺れる。
「いえ! 僕は此処で……」
「貴方にお聞きしたい事がございます」
「はい……」
頑なにこの場から離れようとしないマイケル少年を一言で黙らせて、ウルスラは彼を伴い医療棟へと戻った。
受付にいたハンナは突然現れたマイケルの姿に驚いたようだったが、怪我等をした訳ではなく、ベルナールに会いに来たのだという事がわかるとホッとした顔になってウルスラとマイケルの為に熱いお茶を淹れてくれた。
「……あのぅ、奥様。僕に質問って……」
応接室に通されソファに腰を下ろしたものの、出されたお茶に手を付ける事もなく、へにゃりと眉尻を下げたマイケルが問う。
身に付けているものは、騎士団の支給品らしくそこそこしっかりした仕立てをしていたが、彼の所作や婚約者を「奥様」と言い間違える辺り、貴族社会に慣れていない下級貴族か、もしかしたら平民かもしれない。
この国の騎士団は試験さえクリアすれば誰もが入団を許される実力主義集団である。
その騎士団に見習いとして所属するのだからマイケルも剣の素養はあるのだろうが、剣技と礼儀作法は全くの別問題だ。
マイケルの少し気の早い言い間違えにほんの一欠片のときめきを覚えつつ、ウルスラは紅茶を一口飲んでから口を開いた。
「先程仰っていた、ベルナール様のお怪我の原因というものについてお訊ねしたいのです。ベルナール様は訓練中の事故としか仰いませんが……一体何があったのですか」
「それは……」
しばらくもごもごと言い淀んでいたマイケルだったが、あまり説明が上手くないと前置きしてぽつりぽつりと話し始めた。
「突然の事で、僕には何が起こったのか全くわからなかったんです。だからこれは、後から他の騎士団員の方に聞いた話になりますが……」
訓練中、騎士見習いの雑用の一つとして汗拭き用のタオルを騎士達に配っていたところ、急にベルナールに腕を引っ張られて体勢を崩し、次の瞬間には彼の腕に折れた刃が刺さっていたのだと彼は語った。
「訓練用の剣は刃を潰してあって斬れないようになっているんですが、古くなった剣が折れて、勢いで折れた刃が僕のいた方へ飛んで来たんだそうです。レインバード先輩はその刃から僕を庇って怪我をして、それで……左腕の神経を傷めたって……だから騎士を辞める事になって……、僕なんか庇って先輩が……」
次第に声が震え、目が潤み始めたかと思うと、あっという間にマイケルのその大きな瞳から大粒の涙が溢れて頬を濡らした。
それでも懸命に涙を止めようとしているのか、膝の上でぎゅっと強く拳を握っている。
鼻先を赤くしたマイケルにそっとレースのハンカチを差し出し、ウルスラはまず涙を拭くように言った。
そしてぐすぐすと鼻を鳴らすマイケルを見詰め、しばしの間思案した。
(……ベルナール様が騎士を引退する事になった原因の事故が、何か、そう、貴族間の利害関係による陰謀であれば私も何らかの手を打つべきと思っていたけれど……、予想以上に普通の事故だったわ)
ベルナールの事故について、ウルスラは他の対立家門によるものである可能性を捨てていなかった。
貴族というのは、同じ階級であってもその中でさらに上下関係があるような複雑な世界に生きている。
上を目指すものは常に他の家門を蹴落とす事に躍起になるし、そんな周りの家門を御しながら己の家門を維持すれば、それだけで力を示すステータスになるのである。
伯爵家筆頭ともなれば媚び諂いながらすり寄る家門も、いつか成り代わろうと機会を狙う家門もそれこそ星の数ほどいそうなものだ。
しかし、話を聞く限りこの件は明らかに事故であった。
他の事故ならまだ疑う余地もあるが、折れた剣の刃が何処に飛ぶかを計算して行える人間の存在など、砂漠に落としたダイヤモンドを探すようなものだろう。
それにマイケルの身長とベルナールの腕の怪我の位置を考えると、それはちょうどマイケルの首の位置に一致する。おそらくベルナールは彼の命の危険を察知し、何かを考えるよりも早く身体が動いたに違いない。
そこまで考えたウルスラは、ようやく涙が止まりそうなマイケルの顔を見て、ある事に気が付いた。
(よく見ると、目の下に隈が出来ているわ。きちんと眠れていないのかしら。もしかして、ベルナール様のお怪我の事をずっと気にして……?)
ベルナールに謝罪のためにと会いに来るくらいだ。
負い目を感じているのは確かだろうが、不眠にまでなっているとなればこれは早急に対処が必要なのではないだろうか。
ウルスラは医学に通じてはいなかったが、心を病むとうまく眠る事が出来なくなるのだという事は知っていた。
この少年が自責の念に心を痛めているのは明白であり、そしてそれは周りの人間や全くの他人であるウルスラには解決が出来ない問題でもあった。
この問題を解決に導けるのは、おそらくベルナールだけだろう。
マイケルはベルナールとよく話をする必要がある。
自分の中でそう結論を出し、こくりと一度頷いたウルスラは、だがその前に言ってくべきことがあると背筋を伸ばした。
「マイケル様」
「は、はい」
「申し上げておきたいのですが」
「なんですか……?」
ソファの上でビクビクするマイケルを見据え、ウルスラは毅然とした態度で言葉を続けた。
「先程からマイケル様は、まるで己は庇われる価値など無いかのように仰いますが、それは違います」
「えっ?」
「ベルナール様はそのような事はお考えにならない方です。それは私よりも付き合いの長いマイケル様の方がよくご存知のはずです。それとも、どなたかベルナール様の怪我は貴方のせいで、ベルナール様が怪我をするより貴方が死んだ方が良かったと言う方でもいましたか」
「やめて下さい! そんな酷い事、僕の先輩達は誰も言ったりしません! 皆、あれは事故だったって、僕が気にする事はないんだって言ってくれました!」
ガタンと勢い良く立ち上がり、仲間への侮辱に対して怒りに頬を赤く染めたマイケルが強い口調で反論する。
そんな彼に深く頷き、ウルスラは平然とした態度でまた一口紅茶を飲んだ。
「えぇ、それが全てでしょうね」
「……え?」
言葉の意味が解らず困惑するマイケルに構わず、ウルスラはカップをソーサーに戻して淡々とした声で言う。
「この事故ですが、貴方は不運にも折れた刃が飛んだ先に偶然立っていただけです。騎士見習いの職務を果たしていた事の、どこに非があるというのですか。責任というのは、備品の管理者や、武器の点検を怠り打ち合いを開始した騎士らに取らせるべきものです。ですから、もし貴方が責任を感じて何かをしたいと言うのなら、やるべき事は二つ考えられます」
「二つ、ですか? 一つはレインバード先輩への謝罪だとして……もう一つは……」
ウルスラの言葉にマイケルがこてんと首を傾げる。どうやらすっかり涙は止まったようだ。
そしてウルスラは、マイケルの返答に否と首を振って否定を示した。
「私が考える貴方のやるべき事。一つ目は謝罪ではなく感謝です」
「感謝……。お礼、ですか」
「貴方に過失のない事故であるのに、自分のせいで怪我をさせてごめんなさいと謝られるのと、貴方のお陰で助かりましたと感謝されるのと、この件においてどちらが気まずいと思われますか」
「……謝られる方、かな……」
「結構。そういう事ですからこれについての説明は省きます。では二つ目です。それは……」
言い掛けたウルスラは、ドアの方からくつくつと押し殺した笑い声が聞こえた事に気付いてはたと動きを止めた。
少年とは言えマイケルも男性であるのでドアは開け放したままにしており、開いたドアの先にはハンナのいる受付が見える。だが肝心の笑い声の主が見えない。
不思議に思って小さく首を傾げたウルスラに、マイケルも何かを感じ取ったのかドアの方を振り返って首を傾げる。
二人がしばらくドアの方を見詰めていると、ひょこりとベルナールが顔を出し、おどけた調子でいつの間にそんなに仲が良くなったのかと笑った。
「ベルナール様、いつから聞いていらしたのですか」
「……立ち聞きするつもりはなかったんだが、なかなか出ていくタイミングがなくてね。やるべき事は二つ、の辺りから……」
「さようで」
聞かれていたと知ると何だか急に気恥ずかしくなり、ウルスラは目を伏せて俯いた。
「ベルナール先輩!」
代わりに飛び出したのはマイケルだ。
ベルナールの前に立ち、辿々しくも騎士の礼をとるマイケルに、ベルナールは小さく笑みを浮かべてその礼を受けた。
「あの、僕、先輩にどうしてもあの時のこと……謝り……、いえ、お礼を伝えたくて!」
一度言い掛けた言葉を言い直したマイケルの瞳には、まだ先程の涙の名残が見えたが、その表情に翳りはなかった。
その事にマイケルの現状について事前に報せを受けていたベルナールは微かに目を見開き、ちらと一度だけ未だ俯いたままの婚約者を見た。
何がマイケルの琴線に触れたのかはわからない。でも確かに彼女は少年が前を向く為のきっかけを作ったのだろう。
視線を戻し、ベルナールはこちらを見上げる少年の次の言葉を待った。
「レインバード先輩。あの時、僕を助けてくれてありがとうございました。僕、たくさん訓練して先輩のような立派な騎士になります!」
良い目だ、とベルナールはマイケルの目を見て思う。
迷いや濁りがなく真っ直ぐな光を放つ少年の瞳のなんと美しい事か。
ベルナールは深く頷き、騎士団でよくやっていたようにマイケルの金色の巻き毛をぐしゃりと撫でて笑った。
「マイケル。君が騎士叙勲を受ける事になったら一番に手紙をくれ。俺が君の式典用マントを仕立ててやろう」
「本当ですか⁉︎ 僕、頑張ります!」
「それから、先程、彼女が言っていた言葉の続きだが……おそらく俺の考えているものと同じだと思うから俺から伝えよう」
その言葉に、マイケルだけでなくウルスラも顔を上げてベルナールを見上げた。
「……これからも健やかであれよ、マイケル・アストン」
「レインバード先輩……」
言いながらベルナールは軽くマイケルの肩を叩いた。
ただそれだけの事だったのに、マイケルの表情はパッと輝き、次いで首が取れそうな勢いで頷いた。
そして彼は、ぐりんとウルスラを振り返って高らかに宣言した。
「奥様! 僕、いつかレインバード伯爵家の専属騎士になれるくらい強くなりますから! そうしたらぜひ僕をそちらの騎士団に加えて下さい!」
「その日を楽しみにしております。レインバード家にいらっしゃる際は、こちらの騎士団からの紹介状を忘れずにお持ち下さいませね」
屋敷の人事は妻の務めであるので、敢えてウルスラに宣言するというマイケルの行動は正しい。
貴族の作法は知らなくても、そういう点は本能的に察知できるのか、はたまたこれも彼の素質なのか。
承知したと頷くウルスラを見て、ベルナールは堪え切れずにまたくつくつと笑い始めたのだった。
その後、ベルナールはウルスラを騎士団の元同僚達へ紹介するべく本部へ向かおうとしたのだが、ベルナールが所属していた隊は本日非番であるとマイケルに教えられて急遽騎士団宿舎へと行き先を変更した。
「あの、マイケル様……? 体調がよろしくないのですか」
「いえ、あの、すみません。さっきから何だか……」
宿舎に向かって歩く事しばし。
そろそろ建物の屋根が見えて来たあたりで、マイケルの身体がふらりと揺れた。
咄嗟にベルナールが倒れないように身体を支え、すかさずウルスラがマイケルの額に手を当てる。
「少し熱っぽいような気が致します。……マイケル様?」
マイケルは何かを堪えるように何度も目を擦り、譫言にも似た声音で大丈夫ですと繰り返すが、どう見ても大丈夫には見えない。
「ベルナール様」
「あぁ、宿舎はもうすぐそこだ。私が運ぼう。ジャケットを頼めるかい」
「かしこまりました」
「……ぼく、へいきです……」
ウルスラはてきぱきと日傘を畳んで腕に掛け、ベルナールから渡されたジャケットを皺にならないように気を付けて抱えて、よし、と頷く。
そして、ふわふわした声のマイケルに淡々としつつもゆっくりと語りかけた。
「マイケル様。もしや眠いのでは? 無理なさらないで、どうぞベルナール様にお任せして」
「そうだぞ、マイケル。落としたりはしないから安心しろ」
二人に言われ、マイケルはもう半分目を閉じているような状態で頷き、それを合図にベルナールがその身体をひょいと抱え上げた。
「ベルナール様、そのように抱き上げてお怪我に障りませんか」
「右腕は問題ないし、この程度軽いものだよ」
そんな短い会話の間に、マイケルはすうすうと規則正しい寝息を立て始めている。
ベルナールが怪我をしてから、ずっと胸にあった罪悪感という棘がようやく抜けて安心したのだろう。
ウルスラもどこかホッとした気持ちで、眠る少年の安らかな寝顔を見詰めたのだった。