6.胸の棘・前編
婚約式を終えて正式にレインバード家次期当主・ベルナールの婚約者となったウルスラは、ここ数日というもの、有り体に言えば浮かれていた。
無表情ゆえ、付き合いの長い侍女くらいにしかその浮かれようは気付かれなかったものの、それはここ数年で一番の浮かれ具合であった。
日に半ページから一ページが常であった日記は、ベルナールから手紙が来た日は倍の量になったし、無意識に手紙を待っているのか、馬車の音が聞こえるとつい窓の方を見てソワソワするようにもなった。
そんな彼女を、父であるアッシュフィールド伯爵をはじめ屋敷の使用人達が微笑ましく見守っているのである。
アッシュフィールド家に長く滞留していた緊張した空気が、少しずつ薄まっていくのを屋敷の誰もが感じていた事だろう。
「さぁ、お嬢様。お支度が出来ましたよ」
「ありがとう。……ベルナール様がいらっしゃるまでもう少し時間があるわね。馬の用意は出来ていて?」
鏡台の前に座ったウルスラは、今日は乗馬服に身を包み、栗色の髪も纏めて結い上げていた。
ウルスラと父マクシミリアンは諸手続きを終えてそろそろ領地へ戻る事になっているので、その前に二人で遠駆けに行こうとベルナールと約束をしていたのだ。
約束の当日はよく晴れており、乗馬には打ってつけの日和だった。
「お嬢様。レインバード小伯爵様に見惚れて余所見をしてはいけませんよ」
「……気を付けるわ」
「ふふふ、あの方、竜退治の騎士様のようですものね」
微笑む侍女から乗馬用の帽子を手渡され、ウルスラは無表情ながら、気恥ずかしさからゆるゆると視線を下げた。
「本当に。まるで冒険譚から抜け出してきたようだわ」
受け取った帽子を胸に抱いて、ほうと息を吐いたウルスラが思い出すのは、初対面のあの日の事。
窓の大きな当家自慢のサロンで出会ったベルナールは、少し癖のある長い黒髪を首の後ろで結い、若葉のように鮮やかな緑色の瞳をしていた。
予想していた通り、彼は昔、王宮の御前試合で見掛けた若い騎士だった。
そんな相手が、あの日の凛々しさそのままに、いやそこに更に次期当主らしい気品も備えてウルスラの手の甲に恭しくキスをしたのだ。
(確かに所作は貴族らしいものではあるのに時々明らかに騎士の所作が混じって……あぁ、とても素敵だけれど、それを口にしたら騎士を引退されたベルナール様は気にされるかしら)
ちらと視線を動かした先にあるのは本棚で、ウルスラの視線はそこに大切にしまわれた一冊の本に注がれていた。
幼い頃から大好きな、騎士の冒険譚である。
勇敢な騎士が国を脅かす竜を倒す冒険小説は、妹からは男の子が読む本のようだとよく言われたものだが、ウルスラは妹の好む王子様とお姫様の恋物語よりも、騎士が苦難の試練を乗り越え、強く、そして誇り高く進む冒険譚を好む娘であった。
そんなウルスラにもたらされたのが元騎士のベルナール・レインバードからの婚約申し込みである。
嫁ぎ先となるレインバード家で今まで培った全てを活かせる事もそうだが、憧れの騎士様からの求婚にウルスラが浮かれないはずがなかった。
(だめ。だめよ。いけないわウルスラ。ベルナール様は次期当主となるべく大変なご苦労をなさっているのよ。私は伯爵家の妻として迎えられるのだから、それに相応しい人間であらねばならないというのに、このように浮かれるだなんて……! 弁えなさい、ウルスラ・アッシュフィールド!)
傷物の娘でも構わないと言えるほど、レインバード伯爵家は切実に能力のある人物をベルナールの妻として求めており、だからこそそれらを備えた己に白羽の矢が立ったのだ。
ウルスラは今後、伯爵家筆頭家門であるレインバード家の女主人としてベルナールの隣に立つ事になる。その際、このように浮ついた気持ちなど以ての外だ。
気持ちを鎮めるために、ウルスラは意識してゆっくりと深呼吸をした。
(……元々表情が動くことはあまりないし、ベルナール様とお会いする時は緊張でいつも以上に顔が強張ってしまうから、私の気持ちが露見するような事はないと思うけれど……。己を見つめ直して冷静になる為に、明日辺り教会でお祈りをしてきた方が良さそうね)
三回ほど深呼吸を繰り返して大分気持ちが落ち着いたところで、使用人がベルナールの到着を告げた。
侍女と共にエントランスホールへと向かう間、ウルスラはひたすら胸の中で「平常心」と唱え続けたのだった。
「──騎士団本部、ですか」
王都郊外にあるなだらかな丘で、休憩がてら愛馬と共に景色を楽しんでいたウルスラは、不意に予定を訊ねられてパチリと目を瞬かせた。
「あぁ。三日後と急な話にはなるんだが、君の予定はどうだろうか」
「喜んでご一緒致します」
二人きりの二度目の外出は、王都でも後継者教育で忙しくしているベルナールの息抜きにとウルスラから遠駆けに誘っていた。
遠駆けというには近場だが、息抜きには良いだろう。
そんなこともあって、次の外出先はベルナールに決めて貰おうとしたのだが、まさか騎士団本部が行き先に選ばれるとは思わなかった。
三日後という日程から、ベルナールは当初ウルスラを伴って行く予定はなかったか、この話を切り出すのを躊躇っていたかという可能性が挙げられたが、それはウルスラにとって些事でしかない。
領地に戻れば、距離の問題から王都にいる時のように頻繁には会えなくなる。
だからウルスラには王都滞在中にあと何度ベルナールに会えるかという事の方が何倍も重要だった。
そういう理由からウルスラには最初から否やなどありようはずもなかったのだ。
むしろ騎士に憧れるウルスラにとって、通常なら踏み入ることの出来ない騎士団本部に行く事ができるというのは願ったり叶ったりである。
対して、ベルナールも騎士団本部という場所柄、ウルスラが即座に頷いた事に少しの驚きを抱いたようだったが、彼女が頷いてくれた事に嬉しそうに微笑んで言った。
「実は、定期的に騎士団本部併設の医療施設で怪我の具合を診て貰っているんだが、次の診察がちょうど三日後でね。その際に騎士団の仲間達に君を紹介したいと思って……迷惑ではないかな」
「迷惑など。ベルナール様が親しくされている方々にご紹介頂けるなんて光栄です」
初めて会った時より大分くだけた話し方をするようになったベルナールに、ウルスラはいつも通りの淡々とした声音で返す。
だが、ほんの少しだけいつもよりも口調が早い。
その事に気が付いてベルナールは更に笑みを深めたのだった。
──そして、約束の三日後。
ウルスラは王宮を訪れるのに相応しい品格の、ミッドナイトブルーの生地に金糸で刺繍を施した日中用ドレスを纏い、同じ色のジャケットを羽織ったベルナールのエスコートで馬車を降りた。
今回の目的地は王宮そのものではないが、敷地内というだけで暗黙の了解でそれなりのドレスコードが求められる。
優雅にドレスの裾を捌きながら地面に足を付けた彼女は、初めて訪れる場所に圧倒されて小さく息を呑んだ。
「……此処が、騎士団本部……」
ぽつりと呟いて門を見上げるウルスラに、ベルナールは開いた日傘を差し出しながら苦笑する。
「あまりレディには相応しくないむさ苦しい場所で申し訳ない。しかし、ここの騎士達は気の良い奴らばかりだから、どうぞ気を楽に」
「お気遣い痛み入ります」
頷いて傘を受け取り、門番に見送られて広い騎士団本部敷地内をベルナールと歩きはじめる。
ウルスラはすぐ目の前の建物へ入るものと思っていたが、彼の行き先である医療施設というのは騎士団本部とは別棟であり、外から回った方が早く着くらしい。
流石に長く勤めただけあってベルナールは道をよく知っていた。
道中、顔見知りらしい騎士に声を掛けられたり、遠くから訓練している騎士達の声や、彼らが木刀を打ち合う硬質な音を聞きながら二人は静かに医療棟へと向かった。
「まだお怪我は痛むのですか」
「今はもう大分慣れたよ。幸い、日常生活に不便もない」
「さようで」
「あえて不便と言うなら、運動がてら剣を振ると家族が良い顔をしない事くらいで……、あぁ、見えてきた。あの建物だ」
騎士団本部の建物をぐるりと回った裏手に立つ、いかにも堅牢そうな石造りの建物を示してベルナールが言った。
先ほど通り過ぎて来た騎士団本部の棟は王宮の壁と同じクリーム色の壁で、窓飾りや柱などにも凝った細工が施されていたが、医療棟と呼ばれた二階建ての建物は装飾のない暗い灰色の石壁の、見るからに無骨で頑丈そうな造りをしていた。
その建物は医療棟というより、まるで要塞か武器庫のようである。
あまりにも建物の造りが違う事に驚きつつ、ウルスラがベルナールに続いて共に医療棟へと入ると、来客に気付いて受付カウンターから二人を出迎えたのは恰幅の良い年配の女性だった。
「こんにちは、レインバード小伯爵様。先生は奥の診察室ですよ」
「ありがとうミセス・レイモン。こちらが前に話した私の婚約者、ウルスラ・アッシュフィールド伯爵令嬢だ」
「ご機嫌よう。ウルスラ・アッシュフィールドと申します」
ミセス・レイモンと呼ばれた女性は、ウルスラの挨拶に感激した様子で口許に手を当て、あらあらと声を上げた。
「まぁあ、何て可愛いらしいお嬢さんなんでしょう! あぁ、挨拶がまだだったわ。失礼致しました。私はハンナ・レイモンと申します。ここの医師、アーノルド・レイモンの妻で、看護師をしております」
「レイモン……もしやレイモン侯爵家の」
「あら、ご存知? でもうちの夫は弟に跡目を譲ってあの通り医者の道に進みましたから、私達夫婦の家門の事は特に気になさらなくて良いのよ」
「さようで」
ハンナの浮かべた笑顔と明るい声は夏空のように爽やかで、親しみやすい空気を纏う女性だった。
彼女はてきぱきとベルナールを診察室に送り出すと、今日は診察に時間が掛けるからとウルスラを応接室に案内し、お茶とビスケットを出してくれた。
「私は受付におりますから、何か御用があればお声掛けくださいましね」
「お気遣いに感謝致します」
ソファに座り小さく頭を下げたウルスラに、ハンナはウルスラの無表情ゆえかほんの少し戸惑った顔になり、けれどもすぐに破顔した。
「ふふ、あの坊やにこんなに素敵なお嫁さんが来るだなんて……」
「坊や」
「えぇ、えぇ! 此処の騎士達は私に言わせたら皆坊やですよ!」
聞けば、ハンナは夫に嫁いだ十八の頃からこの医療棟で看護師をしており、四十年近く騎士達の面倒を見て来たという。
「ベルナール坊やも騎士見習いの頃は傷の手当てする度に消毒が痛いとベソかいていたものですのよ。今ではあんなに立派になられて、昔の可愛げも大分薄くなりましたけれどね」
「……そうでしょうか」
「え?」
「ベルナール様は確かに凛々しくていらっしゃいますが、今でもお可愛らしい方です」
ウルスラの小さな反論に、ハンナは僅かに目を見開き、喜色の滲む声で何度かあらあらと繰り返すと上機嫌に受付に戻っていった。
(思わず可愛いらしいと言ってしまったけれど、はしたなかったかしら……)
先程の言葉は反射的に口をついて出たものだ。
けれど男性に可愛いなどとは、本人不在の場とはいえ失礼だっただろうか。
そんなことを考えながら一人応接室で待機していたウルスラは、しばらくはお茶とお菓子を楽しんでいたが、早々に好奇心に負けて静かにソファから立ち上がった。
何せ此処は騎士団本部。
王宮勤めの騎士が集う場所である。気にならない訳がない。
レースカーテンの掛かった窓から外の景色へ視線を向け、そこでウルスラはおやと首を傾げた。
(……まぁ、あれは一体何をしているのかしら……)
金色の髪が植木の陰でぴょこぴょこと揺れている。
気になってしばらく眺めていたが、どうやらそれは建物内の様子を伺っているように見えた。
(敷地内にいるのだから騎士団関係者かしら。でも医療棟の前でうろうろしているのはおかしいわよね。怪我をしているのならそのまま建物に入れば良いのだし……)
動きに合わせてふわふわの巻き毛が揺れる様は、見た目には仔犬がじゃれて転がるようで可愛らしいが、この場で辺りを窺うその意図がわからない。
しばらく首を傾けたまま一体何をしているのかとあれこれ思案してみたものの、一向に答えが出なかったのでウルスラはハンナに少し外の空気を吸いに行くと伝えて建物の外に出た。
そして窓の位置を確認して場所の見当をつけると、植木の陰へそっと声を掛ける。
「もし、医療棟をご利用の方ですか」
すると焦ったように植木がガサガサと震え、しばらくの沈黙の後で「違います」と答える声が聞こえた。大分若い、少年のような声だった。
「ではそのようなところで何を? 騎士団本部敷地内でまさか不審者という訳でもないでしょう。それとも誰か人を呼びますか」
「え、わ、ま、待って! 待ってください!」
踵を返そうとしたウルスラを引き留めた声の主が、転がるように植木の陰から飛び出してウルスラの前に跪く。
金の巻き毛にくりっとした可愛いらしい瞳をしたその人物は、跪いたまま胸の前で指を組み合わせて懇願の体勢をとった。
「僕、不審者じゃありません! 僕は騎士見習いのマイケル・アストンと申します。僕……、僕は、ただ人を待っていただけなんです」
「どなたを?」
「……ベルナール・レインバード様です。先程建物に入ったと聞いて……」
そこまで聞いたウルスラが、この少年を先程まで自分がいた応接室へ通すべきかを思案し始めたその時、マイケルがしょんぼりと肩を落として俯いた。
「……僕はレインバード先輩に謝罪に来たんです。あの怪我の事、改めて謝りたくて……」
「あの怪我、というと貴方は……」
淡々と事実確認を続けるウルスラに、マイケルはこくりと頷いて続けた。
「──レインバード先輩が怪我をしたのは、僕のせいなんです。ですから謝罪を……」
マイケルからもたらされた言葉に、すぅ、と腹の奥が冷えていくような感覚がウルスラを襲う。
あの怪我とは、ベルナールが騎士の道を諦める事になった訓練中の事故の事だ。
その当事者が、目の前にいるこの少年なのだという。
困惑するウルスラの心情を表すかのように、ざぁと吹いた一際強い風が、辺りの木々とウルスラのドレスの裾を揺らしていた。