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5.元騎士小伯爵と氷の伯爵令嬢

 王都にあるアッシュフィールド邸に向かう馬車の中で、ベルナールは緊張を解すように大きく深呼吸をした。

 向かいの席に置いた手土産の小さな花束から香る薔薇の匂いが鼻腔をくすぐり、少しだけ気持ちが落ち着く。


(ウルスラ・アッシュフィールド伯爵令嬢とは、どのような女性だろう)


 何となしに窓の外を見やり、ベルナールは行き交う他の馬車や大通りの景色を見ながら、母から聞いたアッシュフィールド令嬢の話を思い出していた。


 ──ウルスラ・アッシュフィールド伯爵令嬢。

 常に氷のような冷ややかな態度から、社交界において氷の伯爵令嬢と呼ばれるアッシュフィールド家の長女である。

 次期当主となるべく育てられた彼女は、婚約者がウルスラの実の妹と子を成した事を受け、婚約者の座と後継者の座を妹に明け渡したという。


(次期当主として育てられたとは言うが、年頃の娘が婚約者をよりにもよって妹に奪われるなど、相当なショックを受けただろうに……)


 不義の子を身籠った妹を勘当せず、むしろ次期当主の座に就かせると決めたのはアッシュフィールド伯爵ではなくウルスラ本人であるらしい。

 その話を母から聞かされた時、ベルナールは非常に驚いた。

 確かに色々と合理的だし、一番周りに影響の出ない方法である。しかし、だからと言ってそれを自ら選び取れるかというと話は全く違ってくるはずだからだ。


『……社交界では、氷の令嬢は感情まで凍り付いているから、この程度何とも思わないのだと噂になっていたわ』


 少々苦い顔をしながらそう言った母は、どちらかといえば口さがない周りの貴族の物言いに辟易していた様子だったが、噂と言えど社交界での噂は情報戦の武器でもある。

 その中に何割の事実が含まれているのかは、実際に確かめてみなければわからない。

 ベルナールは馬車に揺られながら小さく唸った。


(しかし俺はこの身勝手な婚約を受け入れて貰わねばならん身だ。相手が氷の令嬢でも何でも、こちらが何か口を出せるような立場ではない)


 未だ後継者教育を受けている最中のベルナールとは違い、アッシュフィールド令嬢は既に当主教育を終えている、謂わば先輩である。だからこそ母が彼女に目を付けたのは明白だ。

 だが、このまま婚姻が成れば、レインバード家の女主人となる彼女に並々ならぬ苦労をかける事は目に見えていた。

 だからこそ、ベルナールはこうして直接挨拶に行く事を選んだのだ。


(貴族の結婚では結婚式当日まで互いの姿絵しか知らないような事は多いが、アッシュフィールド令嬢には今後多大な苦労をかける事を事前に説明せねば俺の気が済まん。何も言わずに嫁がせるのでは騙し討ちのようではないか)


 自身の婚約破棄で心を傷めているだろう令嬢にそのような仕打ちをする事は、ベルナールの中に深く根付く騎士道精神が許しはしなかった。

 いずれ結婚するのであれば、相手には誠実であらねばならない。

 少なくとも、相手が傷つくような事は避けたいとベルナールは強く思っていた。


(今まで女性に接した事など数える程しかない俺がそう上手く対応出来るだろうか)


 レインバード小伯爵の目下最大の不安。

 それは、女性への接し方であった。

 騎士として夜会の警護などで多少接する事はあっても、このように女性と個人的な対面は初めてだ。

 弟からは「花束の一つでも渡して笑顔で接すれば最悪の結果にはならない」と言われたが、今思えばあの言葉はそもそもの期待値がマイナスに振り切っていたような気がする。


「……やるだけやってみよう」


 ベルナールがぼそりと呟くのと同じくして馬車が停車し、御者が到着を告げた。

 いざ出陣と、ベルナールは緊張した面持ちで花束を持ち、颯爽と馬車から降り立ったのだった。




「おぉ! 君がレインバード小伯爵かね。私が当主のマクシミリアンだ。アッシュフィールド邸へようこそ」

「アッシュフィールド伯爵。お初にお目に掛かります。レインバード伯爵家のベルナール・レインバードです。本日は父が伺えず申し訳ありません」

「構わんよ。レインバード伯へは近い内に此方から挨拶に伺おうと思っていた所だ」


 ベルナールを出迎えたのはウルスラの父であり、アッシュフィールド伯爵家現当主のマクシミリアンだった。

 マクシミリアンはまず婚約の申し出についてベルナールに礼を言い、自ら案内役を買って出てくれた。


「娘はサロンにて小伯爵を待っております。何分、その、えーっと、何と言うか……、そう、大人しい娘ではあるのだがね……」


 何やら大分言葉を選んでいるのが察せられるアッシュフィールド伯爵の言葉に、ちらりとベルナールの脳裏に『氷の伯爵令嬢』の異名が過ぎる。

 だが、それらを顔に出す事は許されない。

 貴族らしく控えめに微笑んで、ベルナールはマクシミリアンに案内されるままサロンへと入った。


「ウルスラ。レインバード小伯爵にご挨拶を」


 大きな窓が印象的な半温室のサロンにはあちこちに植物が配置されており、一見するとまるでガーデンパーティーにも似た開放感がある。

 応接間で堅苦しく話をする事にはならなそうだとベルナールが僅かに安堵したその時、前を進むマクシミリアンの声に応じ、軽い衣擦れの音と共にグラスに氷を転がした時のような軽やかな声がした。


「はい、お父様」


 聞こえた声に反射的に視線を動かしたベルナールは、ティーセットが用意された奥のテーブルからしずしずとやってきた令嬢の姿に一瞬呼吸を忘れた。


「──初めまして。アッシュフィールド伯爵家長女、ウルスラでございます」


 淡いラベンダー色のドレスを纏い、指先まで美しい所作で挨拶をくれた栗色の髪の娘。

 その顔に笑みこそないが、自分を見上げるヘイゼルの瞳はどこまでも澄んで見えた。


「は、初めまして。レインバード伯爵家のベルナール・レインバードです。今日はお時間を頂き感謝致します」

「此方こそ、小伯爵様においで頂きましたこと、大変嬉しく思っております」


 淡々とした声音と変わらない表情に、これが氷の伯爵令嬢かと思う。

 あまりに淡々としすぎて、本心なのか社交辞令なのか全く見分けがつかない。

 それほどまでに、彼女の表情はぴくりとも動かなかったのだ。

 しかし、慣例通りにウルスラの手を取りその手の甲に唇を落としたベルナールは、無表情な彼女の耳が、それこそ乙女が恥じらいに頬を染めるかのように僅かに赤く染まっているのを見つけて目を瞬かせた。


(氷の伯爵令嬢……とは?)


 改めてウルスラの表情を見ても全く変わりはないし、もしかしたら気のせいや見間違いという可能性もある。

 気に掛かりつつも、その後、アッシュフィールド伯爵を交えてしばらく他愛もない世間話などしていると、伯爵は不意に何か思い出したように顔を上げた。


「失礼。私とした事がこの後に約束があったのを忘れていた。私はここで失礼するが、君はどうぞゆっくりしていってくれたまえ」


 そうして挨拶もそこそこにマクシミリアンはサロンから去り、後にはベルナールとウルスラと給仕だけが残された。


「えぇと……」


 伯爵に気を遣われたのは明白だ。

 実質令嬢と二人きりだと思うと途端にぶわりと緊張が押し寄せてきて、ベルナールは気持ちを落ち着けるように殊更ゆっくりとした手付きで紅茶に口を付けた。


「……あの、レインバード小伯爵様」

「え? あぁ、どうぞベルナールと」


 ウルスラに声を掛けられ、手にしたカップをソーサーに戻す。

 彼女はやはり無表情のまま、じっとベルナールを見詰めた。

 そうすると表情の無さと相俟って、光の加減で色合いの変わるヘイゼルの瞳はまるでガラス玉のようだった。

 そのガラス玉が瞬いて、ちらと視線がテーブルへと落ちる。


「……ではベルナール様。先程頂いたこちらの花束なのですが」


 挨拶した時に渡していた花束をテーブルの上に載せられてベルナールはギクリとした。

 花束を差し出した時も全く表情は変わらなかったし、受け取った際に言われた礼も淡々としたものだったから、もしや薔薇は好みではなかったのかもしれない。

 もう少し気の利いたものを持ってくるべきだったかと内心で冷や汗をかくベルナールに、ウルスラはやはり淡々とした口調で続けた。


「この薔薇は初めて目にしたのですが、どのような品種なのでしょう」

「あぁ。それはうちの庭師が交配させたものでして、母の名前からとってレディ・アンジェレッタと言います」

「まぁ。ではベルナール様のお屋敷にしか咲かない薔薇なのですね」

「今はそうなりますね」

「……さようで」


 そこでウルスラの視線がほんの少し下がり、会話が途切れる。

 しんとしたサロンの中、ベルナールはこの会話を脳内で反芻し、ウルスラの表情ではなく視線の動きに着目して考えた。


(もしかして……)


 そして閃いた答えをそのまま唇に乗せてみる。


「……よろしければ、今度当家の庭園をご覧になりませんか。その薔薇もまだしばらくは見頃が続きますから」

「よろしいのですか」


 パッとウルスラの視線が上がった事に、ベルナールは確かな手応えを感じて笑顔で頷いた。


(なるほど、確かに表情は凍ったように変わらないが、感情が無いという訳ではないのだな)


 個人所有の薔薇は流通に乗らない。種苗であれば尚更だ。

 先程のウルスラはその事を知っていたから、残念に思って視線を下げたのだろう。

 だが、それがわかったところで会話が広がるわけでもなく、そこからはしばらく無言の時間が続いた。


「……」

「……」


 初対面の令嬢と二人きりの空間での沈黙だというのに、ベルナールは不思議とその静かな空間に気まずやさを感じる事が無かった。

 ただ穏やかに過ぎる時をこのまま楽しみたいのはやまやまだったが、己にはこの屋敷を訪れた目的がある。

 完璧な淑女の所作で静かにティーカップに口を付けるウルスラの様子を伺い、覚悟を決めたベルナールが口を開いたのと同じくしてウルスラが視線を上げた。


「お話したい事が」

「お訊ねしたい事が」


 重なった言葉に二人は互いに顔を見合わせて再び沈黙した。

 だが、こういう場合、紳士はレディを優先するものである。

 ベルナールはウルスラに対し、お先にどうぞと視線で促し、ウルスラも頷きで返してから口を開いた。


「当家はレインバード伯爵家からの縁談を大変光栄に思っております。ですが、お相手は本当に私でお間違いございませんか。既にお聞き及びと存じますが、私は一度破談になった身です。もしベルナール様が本妻に別の方をお望みでしたら、私は妾の立場でも構いません」

「な……っ」


 淡々と紡がれた言葉に思わず絶句する。

 話を持ってきた母にせっつかれ、あれだけ事前に下調べをした婚約の申し込み相手を間違える訳がないし、そもそも調査結果を踏まえた上で申し込んでいる。


(まさか妾でも良いなどと口にするとは……。それほどショックが大きかったのか……?)


 ウルスラが妾でも構わないと発言した事も衝撃だったが、それはつまり己は本妻の他に女を囲うように見えるという事だろうか。

 いかにも貴族らしいがそれはそれでショックだと思いつつ、ここは誤解のないようにしっかり話をしなければとベルナールは居住いを正して一つ咳払いをした。


「アッシュフィールド令嬢」

「はい」

「私は間違いなく、君を、ウルスラ・アッシュフィールド伯爵令嬢を妻に迎えたいと思って婚約申し込みの手紙を送ったのです。そして私は君の他には妻も、それに連なる立場の女性も、迎えるつもりは一切ない事をここで明言させて頂く」

「……承知致しました。私の疑問は以上ですわ。ベルナール様のお話をお伺いしても?」


 椅子に座りながらも背筋をピンと伸ばしたウルスラから促されて、ベルナールは紅茶を一口飲んで唇を湿らすと、やや迷いを含んだ声音で話し始めた。


「この件については、そちらも既にご存知かと思いますが、私は最近後継者として立つ事になりました。未だ当主教育を受けている身です」

「えぇ。存じております」

「そんな私の妻に迎える訳ですから、私が思うに……」


 そしてそこでベルナールは一度言葉を切り、そっと伺うようにウルスラを見遣って再び唇を動かした。


「──相当な労力だと思うのです」

「労力」

「はい。私が未熟なばかりにかける苦労は計り知れない。きっとあなたは大変な思いをなさるはずだ」


 ウルスラはベルナールの言葉に、少し首を傾げて考えるような仕草(無表情ゆえにベルナールの推測だが)をした。


「ベルナール様。それは伯爵夫人としてご当主様、つまりベルナール様をお支えする事について仰っておられますか」

「他にも、当家の伯爵夫人として行って貰う事も多くありますし、全てにおいてという他ないかと……」

「承知致しました」


 段々と声が小さくなっていくベルナールに対し、ウルスラはこくりと深く頷いた。


「何も問題ございません」

「問題……ない……?」

「はい。私は既に淑女教育も当主教育も終えておりますし、女主人の仕事についても多少の心得がございます。レインバード家の名に恥じぬよう、全力をもって妻としてお仕え致します」


 最後にウルスラはもう一度、問題ございませんと言ってベルナールを見詰めた。

 声音に温度も感じなければ、眉の一つも動かない無表情であったが、ベルナールにはそんなウルスラの言葉がとても頼もしく聞こえた。

 同時に、この女性と夫婦として共に立つならば、一日でも早く一人前となり、彼女に見合う男になりたいと強く思った。

 このような感覚は初めてだ。

 ベルナールは安堵と共に込み上げた不思議な感覚に戸惑いつつも、小さく微笑んで言った。


「あなたの言葉に安心致しました。婚約式は父上達が善き日を選んでくれるでしょう。楽しみにしております」

「私も同じ気持ちですわ。両家の領地が離れておりますから、婚約式はおそらく近いうちに王都にて執り行うかと存じます」


 こうして心に抱えた憂いを晴らした二人は、お互いに婚約式までは王都に留まる事を確認し、少しだけ緊張の埋まった空気の中、趣味の乗馬の話やアッシュフィールド邸の庭園の散策などをしながら実に穏やかに初めての対面を終えたのだった。


 この日からおよそ一ヶ月後。

 レインバード伯爵家長男ベルナールと、アッシュフィールド伯爵家長女ウルスラの婚約式が執り行われ、二人は正式に婚約者という間柄になったのである。

 同時に、結婚式は半年後に王都で執り行う旨も決定された。

 半年というと結婚式の準備がギリギリ調う期間である。

 レインバード家やアッシュフィールド家のような歴史ある家門では稀に見る短さであったので、他の貴族達はそんなに結婚を急ぐ理由を知りたがり社交界はしばらくその話題でもちきりになった。

 だが、その理由がレインバード家次男セレスタンの留学時期に合わせたものであるというのは、どの貴族も知る由がなかった。

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