34.愛の在処3
互いに見詰め合ったまま、数秒の沈黙が寝室に流れた。
微かな身動ぎから発する夜着の衣擦れの音がやけに大きく聞こえて、ウルスラはもしやこの胸の鼓動すら相手に聞こえてしまうのではないかと、そんな事を思っていた。
「ウルスラ……」
ベルナールに名を呼ばれ、ウルスラは細い肩をびくりと跳ねさせて返る言葉に身構える。
やはりはしたなかっただろうか。しかし、今伝えなくていつ伝えるというのか。
愛されていると言われた喜びと、愛していると言えた喜びに、結婚までしているのに今更こんな事を口にするなど恥ずかしいという羞恥が加わり、ウルスラの耳は今や夜目にも判るほどに真っ赤に色付いていた。
だが、何か言われるのかと身構えるウルスラに与えられたのは、指先に触れた柔らかな感触だった。
「あ……」
「私も君を愛している」
ウルスラの指先に、手の甲に、口付けが何度も落とされる。
それは親愛を示すものにしては熱過ぎて、ウルスラは頭がくらくらするのを感じた。
(あぁ、まるで夢のようだわ)
令嬢時代とは違うのだから伯爵夫人としてかくあるべしと、私情を胸に押し込めて己を律してきたウルスラである。
確かにベルナールに愛されているのだと知り、そして自分もまた愛しているのだと言葉にする事を許されて、これ程満たされる事はないと胸の奥底から溢れる歓喜でどうにかなってしまいそうだった。
「実を言うと、君が私に尽くしてくれるのは私の未熟さを補ってくれる為だと、そう考えていた事もあった。君の方が当主としての仕事は向いているし、私に付き合わせてしまって申し訳ないと引け目を感じる事も少なくはなかった」
「そんな、どうして……」
「単純に自分に自信がなかったんだろうな。私は言わば急拵えの当主なのだし。でも、家令やマイケルに何度も言われてね」
「何を言われたのです?」
「あれ程の献身は愛がなければ出来ない、と」
それを聞いた瞬間、ウルスラはベルナールに握られていた手を勢いよく引っこ抜くと、両手で顔を覆って俯いた。
「どうしたんだ⁉︎」
「申し訳ありません……。間違いではないのですが、言葉にされると何だかとても気恥ずかしくて……」
自分では上手く隠せているつもりだったのだ。時々は漏れてしまったかもしれないが、それでもちゃんと内心を隠して過ごせているのだと思っていた。
そう言って椅子に座ったまま俯くウルスラに、ベルナールはパチパチと二度瞬きをしてから思わずといった風に声を上げて笑った。
「思えば私達は少々複雑な経緯で結婚に至ったから、立場や建前抜きで話をする機会というものがなかったな。良い機会だ。他に何か確かめておきたい事や、要望などあれば言ってほしい」
「要望、ですか」
「何かあるのかい」
ベルナールに促され、顔を覆っていた手をほんの少しだけ開いて指の隙間からウルスラがちらと覗く。
ウルスラはそのまましばらく悩んでいたようだったが、やがて恐る恐るといった声音で問うた。
「では、ベルナール様が剣の鍛錬をする際、時々見学させて頂いても構いませんか。安全な場所におりますから」
「安全な場所と言っても……」
そもそも剣の鍛錬中の事故で左手に後遺症の残る傷を負ったベルナールは、ウルスラの要望に渋い顔をした。
訓練中の事故というのはなかなか侮れないのだ。
しかしウルスラも引き下がらなかった。
「見学の具体的な場所を申しますと、屋敷二階の窓からです。そこからなら鍛錬場がよく見えますので。実は今までもそこからこっそり朝の鍛錬の様子を拝見しておりました」
「そんな場所から」
屋敷の二階なら何か危険が及ぶ事もあるまい。
そこで良いと言うのならと、ベルナールはウルスラの要望を受け入れて首肯を返した。
「しかし私は鍛錬の際かなり早く起きるはずだが、私に合わせて無理をして起きるような事はしないでほしい」
「お約束します。ベルナール様は何かご要望などございますか?」
「そうだな……」
ベルナールは手遊びにレモネードの入ったグラスを揺らしながら、やや上目遣いになってウルスラを見る。
ウルスラは一体何を言われるのかと小さく首を傾げて言葉を待った。
「名前で呼んでほしい」
そして、示されたベルナールの要望を聞いて更にこてんと首を傾げた。
「お呼びしております」
名前で呼んでほしいとベルナールは言ったが、既に名前で呼んでいるのだ。
しかしベルナールはそうではないんだと緩く首を振って言った。
「名前で呼んでくれるのは寝室でだけだろう。君が公私を分けたいと言うから一度は許可したが、君に旦那様と呼ばれるのは何というか……寂しいんだ」
「さようで……」
「君の働きぶりは申し分無いし、そもそも君は呼び方一つで公私混同するタイプでもないのだから構わないのではと思うんだが、どうだろうか」
ベルナールの真剣な眼差しに気押されてウルスラはキュッと唇を噛んだ。
左右に揺れる視線と迷うように震える唇。
一言で表すのなら、ウルスラはひどく葛藤していた。
「……私は」
呟く言葉はどこか苦々しい。
ベルナールはごくりと息を呑んで続く言葉を待った。
「私は、結婚してしばらく経つというのに未だに浮かれ続けてしまって、気を抜くと、何と申しましょうか、ふ、ふにゃふにゃになってしまうのです」
「ふにゃふにゃ?」
「伯爵夫人として使用人達の前で不様を晒す訳にはまいりません。ですので、例えベルナール様のお望みとあろうとも、これをお受けする訳には」
「そこを何とか」
「……け、検討致します」
これが最大の譲歩であるとウルスラの瞳が語っていた。
それを見てベルナールも今日のところは引き下がる事を決め、グラスのレモネードを一気に飲み干して凝り固まった身体を解すようにぐっと大きく身体を伸ばした。
「これまでも仕事の事や日々の生活で気付いた事については話をする時間を取っていたが、思うにあれは伯爵と伯爵夫人としての時間だった。今回のようにただの夫婦として話をするのも良いと思う」
「えぇ、さようでございますね」
ウルスラもレモネードを飲みながら頷いていたが、途中でベルナールに手招きをされるとグラスを置いて夫のすぐ前に立った。
「ベルナール様? きゃっ」
「ははは。こんな風に君を抱き上げるのも久しぶりだ。……うむ。やはり軽いな。もう少し食べるべきでは?」
ベルナールにひょいと抱き上げられて、ウルスラは反射的に夫の首に腕を回して抱き付いた。
ドレスに比べて夜着は軽いし、夏用のものとなれば尚更だ。
やれやれとウルスラが小さく溜め息を吐く。
「ご心配なさらないで下さいまし。食事だって毎食きちんと摂っております。それより今夜のお話はこれでおしまいでよろしいでしょうか?」
「そうだな。明日にはマリアンヌの家に手紙を送ったり帰宅の手筈を整えたりと色々予定も出来たし、そろそろ休もうか」
そう言って、結局ベルナールはウルスラを床に降ろす事なくベッドまで運び、彼女の頬にキスをした。
「おやすみのキスですか?」
「それはまた後でするよ」
「ではこれは?」
「これは君を愛している、のキスだ」
「さようで……」
寝室の明かりを落とし、二人でベッドに横になってどちらからともなく唇を寄せる。
その夜交わした何度目の口付けがおやすみのキスだったのかウルスラにはとんとわからなかったが、そんな事が気にならない程胸が一杯であったので、ウルスラも、そしてベルナールも、満たされた気持ちのままぐっすりと朝まで健やかに眠りについたのだった。




