31.子供の気持ち
「お話ってなぁに」
晩餐の後、仔猫と共にウルスラ達が待つサロンへとやってきたマリアンヌは、不思議そうに首を傾げてそう尋ねた。
そんなマリアンヌをソファに座らせ、まず口を開いたのはベルナールだった。
「マリー。今日は大事な話をしたいと思っている」
「大事な話……。まさか、私、家に戻されるの?」
ベルナールの真剣な声音にサッと顔色を変えたマリアンヌは、眉尻を下げて恐る恐る問うた。
この屋敷に来てから、それだけの事をして来た自覚があるのだろう。
ベルナールはマリアンヌの問いにそうではないと否を返し、落ち着かせる為にゆっくりとした口調で言った。
「それをどうするのか、決めたいんだ」
「お兄様、それってどういう事?」
「そこからは私が説明します」
ベルナールから引き継いで、ウルスラは言葉を選びながらアルヴィエ伯爵家に行って来た事、そこで色々と話を聞いてきた事を伝え、ほんの少しの沈黙の後でマリアンヌを見詰めて言葉を続けた。
「アルヴィエ伯爵夫妻……、マリアンヌのお父様とお母様は改めてあなたと話をして、これからはもっと話に耳を傾けるとも約束して下さいました。けれど私としては、あなたをこれ以上あの伯爵家に置いておくのはどうか思っていますし、私達の養子に迎えたいとも考えています」
「えっと……、じゃあ私を修道院に送るっていう話はなくなったの?」
「勿論です。マリアンヌが家庭教師にあんな態度を取っていた理由も、それなりに理解しているつもりです」
とはいえ蛙にはかわいそうな事をしたので、今後はしてはいけませんよと付け足してウルスラが言えば、マリアンヌは一度だけ小さく頷き、ソファに深く座り直した。
仔猫を撫でながらも、必死に状況を整理しているのが表情からも伝わってくる。
ウルスラもベルナールも、急かす事はせずにじっと少女が頭の中を整理し終えるのを待った。
「あの、えっとね、私、おうちに帰っても修道院に行かなくて良いのね?」
「えぇ」
「養子になるって、ベルナールお兄様とウルスラ様がお父様とお母様になるってこと?」
「えぇ、そうです」
「私、おうちでずっと悪い子だったのよ。お父様とお母様は私の事怒ってないかしら……」
「それはありません。アルヴィエ夫妻はマリアンヌに起きた事を知って、貴女の事をとても心配していました」
ぽつぽつと零れる問いに真剣に答えていくと、マリアンヌは唸り声を上げてギュッと強く目を瞑った。
少女はしばらくそのまま目を閉じていたが、急に静かになったかと思うと、そろそろと目を開けてベルナールとウルスラを見詰めた。
「養子になるって、私、マリアンヌ・アルヴィエからマリアンヌ・レインバードになるという事よね。お父様やお母様、お姉様達にはもう会えないの?」
「そんな事はない。会いたい時は会いに行って構わないとも」
「そう……」
眠たげにマリアンヌの指先を舐めて丸くなる仔猫を膝に乗せて、マリアンヌはそっと口を開いた。
「私、おうちで先生から痛い事をされた時、お父様にもお母様にも、お姉様達にも言ったの。でも、私が何度言っても先生がそんな事をするはずないって、するとしたら私が何か悪い事をしたからだって言われたの。何度も助けてって言ったのに、誰も聞いてくれなくて、とっても悲しかった」
どこか遠くを見るような眼差しのマリアンヌは、ウルスラの目に年頃よりも随分と大人びて見えた。
周りに信じられる大人がいない状況が続いた事で、少女は少しだけ他の子供達より早く大人にならざるを得なかったのかもしれないと思うと、ウルスラはどうしようもなく悔しく、遣る瀬無い気持ちになった。
「私、家庭教師の先生だけじゃなくって、お父様もお母様もお姉様も屋敷のみんなも、全員嫌いよ。だって誰も私の事、信じてくれなかった。話もちゃんと聞いてくれなかった。助けてくれなかった。私ずっと苦しいままだった。……このお屋敷に来た時も最初はウルスラ様は私の事嫌いだと思ってたの。だって、ウルスラ様は笑わないし……。でも、ウルスラ様が私の事を考えてくれてるって知って、お話もちゃんと聞いてくれて、本当に嬉しかったの。ウルスラ様がお母様だったら、私、きっと幸せだと思う」
「……マリアンヌ。では、」
「でも」
言いかけたウルスラの言葉を遮ったマリアンヌの目からは、ポロリと大粒の涙がこぼれ、少女の頬を濡らしていく。
その涙はあの日、マリアンヌが号泣した時によく似ていた。
「……私、わかってるの。レインバードの子供になるってとっても幸せな事だってわかってるの。でも、わかってるけど、やっぱり私のお父様とお母様は……、アルヴィエのお父様とお母様なの。嫌いって言ったけど、ほんとはまだ大好きなの。ごめんなさい。お兄様とウルスラ様も私の事たくさん考えてくれているのに、ごめんなさい、わ、私、どうしても『アルヴィエ家のマリー』がいいの……、おと、……さ、お母……っ。──パパとママのところに帰りたい……」
ついに堪え切れなくなったのか、マリアンヌはわぁんと大声で泣き出した。
パパ、ママと両親を呼びながら次から次に零れ落ちる涙を手の甲で拭うマリアンヌをやんわりと制止し、ベルナールがその手にハンカチを握らせてやる。
そしてベルナールはふとウルスラに視線を移し、そのまま目を見開いて硬直した。
「ウルスラ……?」
「……あ、考え事をしておりました。申し訳ありません……」
いつもと変わらぬ無表情だったが、ウルスラのその頬に透明な雫が伝っていたのだ。
それは静かにウルスラの頬を濡らしてドレスへと落ちていく。
ウルスラが泣くなんてこの屋敷に来てから初めてではないか。
妻の涙に動揺したベルナールを見てウルスラはどうしたのかと首を傾げ、そしてその時ようやく己が泣いている事に気が付き涙で濡れる睫毛を瞬かせた。
「ウルスラ様、泣いてるの? 私がアルヴィエに戻るって言ったせい?」
スンスンと泣いていたマリアンヌが不安げに声を上げるが、ウルスラはいいえと首を振ってきっぱりとそれを否定する。
「いいえ。これはきっと、マリアンヌがご両親を思う気持ちにつられてしまったのでしょう」
ウルスラは涙をそっとハンカチで拭い、もう大丈夫だとベルナールに告げてからマリアンヌに向き直った。
「マリアンヌ。明日にでもアルヴィエ家に手紙を送り、マリアンヌが戻りたいと言っている事を伝えましょう。返事が来たらすぐに出立できるよう支度をしましょうね」
「ウルスラ様……。あの、良いの……?」
「良いも何も、マリアンヌのしたいようにするべきでしょう。ただ、これだけは忘れないで」
「なぁに」
「私もベルナール様も、貴女の味方です」
「うん。……うん!」
マリアンヌはウルスラにぎゅうと抱きつき、ウルスラもマリアンヌを抱き締め返す。
味方で居てくれる誰かの存在は自信と安心を与えてくれる。
家族の他に居場所と味方を得た少女は、まだほんの少し鼻先を赤くしながらも、眠ってしまった仔猫を胸に抱いて不安のない足取りでメイド達と共に自室へと下がっていった。
「……お恥ずかしいところをお見せしました」
「恥ずかしい事などあるものか。さて、私達も話をしようか。場所はこのまま此処で良いだろうか?」
マリアンヌが去り、二人きりになったサロンでベルナールが問う。
元々マリアンヌと話をした後は夫婦の話し合いの時間にすると決めていた。
明日の予定も調整したし、このまま此処でじっくり話し合いを進めても良いだろうとベルナールは思ったのだが、ウルスラは泣いてしまって顔を洗いたいからと、一度湯を浴びてから改めて時間を取りたいと申し出た。
「夫婦の私的な話ですから、場所は寝室でも良いでしょう。急いで湯を浴びて参りますので」
「いや、寝室で話をするのならそのまま寝てしまえるのだし、急ぐ事もない。私も湯を使ってくるからゆっくりしておいで」
「それではお言葉に甘えてそのように」
この屋敷では屋敷の主人たる伯爵専用のバスルームの他に、伯爵夫人専用のバスルームがある。
互いに入浴と寝支度を整えてから気兼ねなく話をしようと決めて、二人は一旦それぞれの部屋へと戻る事にした。
(マリアンヌがきちんと結論を出せて良かった。私達も子供の事について向き合って話をしなければ……)
専用の浴室で湯を使いながらそんな事を考えている内に、示し合わせて寝支度を整えるだなんて、まるで初夜の時のようだとふと考えてしまい、一体何を考えているのかと浴室で一人顔を真っ赤にしたウルスラが侍女に湯あたりを起こしたのではと心配されたりもしたのだが、その事をベルナールは知る由もなかった。




