30.伯爵家の子供達
翌日。公爵夫人を見送り、屋敷の仕事を済ませたウルスラはベルナールの執務室にいた。
マリアンヌとマイケルには今日は休みを取らせており、執務室の中にはウルスラとベルナール、それから家令の三人だけである。
その中でウルスラはぴんと背筋を伸ばし、はっきりとした声で今回の件について報告していく。
「──マリアンヌの教育を担当していた家庭教師達から詳しく話を聞いたところ、体罰以外にもマリアンヌの尊厳を踏み躙る行為があった事を確認しました」
マリアンヌが反抗的な態度を少しでも見せると、家庭教師達は彼女に体罰を与えていた。
そこまでは事前にウルスラも掴んでいたが、問題はそれだけでは無かったのである。
「事あるごとにマリアンヌを姉達と比べ、彼女の人格を否定するような言葉を投げ掛けていたそうです」
「人格を否定?」
「例えば、『無能な娘なのだから人の何倍も努力する必要がある』ですとか『伯爵家の恥』ですとか、もっと酷いものになると……」
「いやいい、よくわかった」
淡々と告げられる報告に、ベルナールは大きな溜め息を吐いてそれを制止した。
どれも子供に掛けるべき言葉ではない事は誰の目から見ても明白で、そんな言葉を日常的に浴びてきた少女によくぞ今まで耐えてきたと胸が痛むばかりだった。
だが、そこに気付いたのは妻のウルスラであり、自分は何も出来ていない。
その情け無さからベルナールは再び大きな溜め息を吐いた。
「私の前ではいつも通りのマリーだったのだが、そんな事になっていようとは」
「マリアンヌへの体罰や暴言は主に家庭教師と二人きりの時に行われ、家長である父親や男性使用人の前では気付かれないよう何もなかったようですね。マリアンヌは女性に警戒心を持っていたので、それを逆手に取って山猫令嬢という言葉で女性使用人を丸め込んでいたのでしょう」
「あぁ、なるほど。私といる時は安全だと判断していたのか」
「意識的か無意識かはわかりませんが、おそらくは」
マリアンヌは生来活発で気の強い娘である。
だが、一方で妙に自分に自信がないような、自己の能力を卑下するところがあった。
自分に出来るはずがない。そんな言葉を度々口にする場面を自分も見ていたのに、気が付けなかったのがこれまた情け無いとベルナールは項垂れる。
「それで、アルヴィエ伯爵は何と?」
「……今後はマリアンヌとよく話をして、何事も真偽を確かめた上で判断する、と」
無表情にそう答えたウルスラの一瞬の間に、ベルナールは肩を竦めた。
「君はその意見に納得していない。そうだね?」
「屋敷の誰一人としてマリアンヌの言い分を聞かなかったのですよ。心を入れ替える、今後は気を付けるなど、口では何とでも言えます。私はマリアンヌをあの家に帰すのは反対です」
どうやらウルスラのアルヴィエ伯爵夫妻に対する怒りはまだおさまっていないらしい。
ベルナールは慎重に言葉を選んで尋ねた。
「君はやはりマリアンヌをレインバード伯爵家に迎えたいのかい」
「……出来る事なら」
俯いたウルスラの胸の内の葛藤がベルナールには手に取るように理解出来た。
レインバード伯爵家は、この国の伯爵家筆頭家門である。
その伯爵家の養子となれば、貴族令嬢として求められるレベルは必然的に上がっていき、マリアンヌには本来必要のなかった努力を強いる事になる。
教育は必要だ。だが、教育を強要するのは違うのではないか。
ウルスラはそんな葛藤を抱えているのだろう。
ベルナールとて、マリアンヌを養子として迎える事については吝かではない。
血筋もハッキリしているし、生まれた頃から知っている娘だ。
だが、その細い肩にレインバードという重責を担わせる事については、未だ少しの迷いがあった。
故に、ベルナールが言えたのはただの一言だけだった。
「どちらにせよ、マリアンヌの意向を確かめてからゆっくり話を進めるべきだろう」
その言葉にウルスラも深く頷く。
ここで本人に何の伺いも立てずに性急に事を進めては、自分達とてアルヴィエ伯爵夫妻と同じである。
マリアンヌは子供だが、何もわからない幼子ではない。
ウルスラとベルナールは、今夜の晩餐の後でマリアンヌと話をする時間を取る事で合意したのだった。
「ウルスラ。マリアンヌの為に色々と考えてくれてありがとう」
「いえ。……あの、本当のところを申し上げますと」
とにかくマリアンヌと話をしようと決まったが、ウルスラは幾分か迷ったように唇を動かしてから言葉を続けた。
「マリアンヌを思って行動した事は事実です。ですが、その際、別の事を考えていたのもまた事実です」
純粋にマリアンヌの事だけを考えていた訳ではないのだというウルスラに、ベルナールは首を傾げた。
「マリアンヌの他に誰の事を考えたのか聞いても?」
まさかマイケルという訳でもあるまい。
だが、他に子供の知り合いがいただろうか。
ベルナールの問い掛けに、ウルスラは床に視線を落とし、一度深呼吸をしてから改めてベルナールと目を合わせて言った。
「マリアンヌの事を考えている内に、これがもし私と旦那様の子供の事であったらと考えてしまって。我が子を害され怒らぬ親などおりませんでしょう」
「……そうか」
その言葉を聞いて、ウルスラと己の感じ方の違いはここにあったのだとベルナールは直感的に悟った。
ベルナールとしては親類から預かった大切な従姉妹として今回の件を見ていたが、ウルスラはそこに我が子であったらという点を加えていた。
「……私は本当に未熟だな」
いつかは後継たる子を持たねばならないとわかっていたはずなのに、自分はまだ親になるという事についての理解が浅すぎる。
ベルナールは己の浅慮を心から恥じて目を伏せた。
「旦那様」
溜め息を吐くベルナールに、ウルスラはまだ話は終わっていないと口を開く。
「マリアンヌについては彼女とじっくり話し合った上で決定するとして、私達も、そろそろ話をするべきかと思うのでしょうが如何でしょうか」
「話? あ、あぁ、そうか。そうだな」
ウルスラは直接的な言葉こそ出さなかったが、この流れで自分達の子供についての話だと気付かない訳もない。
初夜も済ませ、夫婦仲も悪くはないが、そう言えば後継についてきちんと話をした事はなかった。
おそらくは、ベルナール自身がまだ己を半人前だと思っているからだ。
もう少しウルスラに相応しい夫になってから、と知らず知らずのうちに考えてしまったのである。
(だが、良い機会だ)
レインバード家に嫁いでくれたウルスラが、子供についてどのように考えているのか知りたい。
ベルナールはその一心で深く首肯を返し、ウルスラもこっくりと頷いてみせる。
「明日は私も君も特に来客などの予定はなかったはずだね。子供の事はマリアンヌとの話し合いが終わった後でゆっくり話をしよう」
「かしこまりました。それでは、また後ほど」
いつも通りに軽く礼をして執務室を出ていくウルスラを見送り、ベルナールはぽつりと呟く。
「……子供か……」
伯爵家の後継者云々という話を抜きにしても、ベルナールは子供というものが嫌いではないし自分の子であれば尚更可愛く思えるだろう。
だが、今回のマリアンヌの件を鑑みるに、可愛いだけで済まないのが子育てというものなのではないか。
──考えるべき事は山のようにある。
そう現時点での結論を出し、今夜のマリアンヌとの話し合いとその後に控える妻との話し合いに備え、ベルナールは少しでも時間を確保する為に執務に勤しむのだった。




