28.アフタヌーン・ワルツ
護衛騎士らと共に速足で領地の街道を駆け、少しの休憩をとる事にした一行は小川の側で馬を休ませていた。
「……驚きました」
「突然すまない。でも今朝の分の執務はきちんと昨夜の内に済ませてあるから、仕事を疎かには……」
「あの、そうではなく……」
日差しを遮る木陰で並んで立ち、ベルナールの持参していた水筒で喉を潤したウルスラが夫を見上げて言えば、当人はきょとんとした顔になって小さく首を傾げる。
「仕事でなければ……、あぁ、マリアンヌなら家令とメイド長も君の侍女と一緒にマリアンヌを見てくれる事になっているから心配は」
「そうでもなく……。あの、こんな事を言うのは少々はしたないのですが」
「うん?」
俯いたウルスラの耳がほんのりと赤く染まっている。
その事に気付いてベルナールが動きを止めたのと同時に、ウルスラが俯いたままぽそぽそと呟いた。
「屋敷に戻れば旦那様と会えるとわかってはいたのですが、アルヴィエ伯爵邸を出てからというもの、少しでも早く旦那様のお顔を見たいとずっと思っていたものですから、窓の外に旦那様がいらっしゃって私の気持ちが屋敷まで届いてしまったのかしらと思ったのです」
ウルスラの言葉を聞いてベルナールは、皺になるのも構わず乗馬服の胸の辺りをギュッと握った。
「……実を言うと、私も君の帰りが気になってずっとそわそわしていたようで、遠駆けに出たのも、そんなに気になるなら迎えに行ってこいと皆に言われたからでね」
「さようで」
照れ臭そうな顔をしたベルナールの隣で、ウルスラは無表情ながら目を伏せて耳を赤く染めている。
「アルヴィエ家で納得のいく話は出来たかい」
「マリアンヌの事については、夫妻ともきちんと話をしてまいりました。けれど、今回の一件は考えさせられる事もたくさんございました」
「そうか。また話を聞かせてほしい」
「はい。旦那様にお話したい事もたくさんありますから」
小川から涼しい風が吹き抜けるのを頬に感じながら、ウルスラは夫の肩に控えめに頭を預け、どちらからともなく触れた指先を絡めて緩く握る。
それを見ていた護衛騎士達は、何だか妙に気恥ずかしい気持ちになって、馬に水を飲ませたり、馬具の確認をしたりと急に夫妻から目を逸らしてあれこれやり始めた。
護衛騎士達は文字通り夫妻の護衛を担当しているので、このようにして外出先で唐突に始まる夫妻の甘やかな時間を度々目にしている。目にしてはいるのだが、普段の夫妻の様子とあまりに調子が異なるからか何度目にしても慣れないのだ。
今の二人の様子を屋敷の使用人達にも見せてやりたいと護衛騎士達は心の底から思いつつ、彼らは短い休憩を終えて再び騎乗したのだった。
馬車では使える道が限られるが、馬だけであればもう少し選択肢が増える。
ウルスラが乗馬に堪能な事もあり、一行は馬車では通常半日と少しかかる道のりを、かなり短縮してまだ明るいうちに屋敷へ戻る事が出来た。
「ウルスラ。ドレスのままの乗馬では疲れただろう。少し休んでおくといい」
「いえ、それほど疲れてはおりません。デルフィーヌ様をお迎えする準備もありますし、まずは料理長に話をしなければ。あぁ、マリアンヌは何処に?」
出迎えた家令にウルスラが尋ねれば、家令は恭しく頭を下げてマリアンヌはメインホールにいると答えた。
メインホールは主に夜会などで使用する屋敷で一番大きな広間である。
そんな場所で一体何をしているのかとウルスラは首を傾げたが、ベルナールに様子を見に行くと良いと言われ、家令に料理長をウルスラの執務室に呼ぶように申し付けて自分はメインホールへと向かった。
「──待って、そっちじゃないわ!」
「えっ、こっちですか? 痛ッ!」
「きゃあ! ごめんなさい、マイケル! また踏んじゃった!」
メインホールは大きく扉が開け放たれており、中からはピアノの音色が聞こえてくる。
しかしそれ以上にマリアンヌとマイケルの弾けるような元気の良い声がよく聞こえた。
何をしているのかと恐る恐るウルスラが中を覗けば、そこでは何だかぎこちない動きの二人がワルツに奮闘しているところであった。
と言っても、度重なるミスに気を取られて基本姿勢は崩れているし、音楽とステップも合っていない。それどころかそもそもステップをきちんと覚えきれてないのがよくわかる辿々しい動きである。
それでも二人は二人なりに真剣にやっているのが伝わって来て、ウルスラはあらまぁと無表情ながら小さく吐息混じりの声を漏らした。
「たまには身体を動かすのも良いだろうと思ってダンスの練習を始めてみたんだが、少し早かったかもしれないな」
「でも、とても楽しそうに見えます」
マイケルもマリアンヌも失敗する度に慌てているが、それでもとても楽しそうにやっている。
二人とも体力があるし、普段からよく動くので、きちんと覚えればダンスもすぐに上達するだろう。座学の息抜きとしてダンスを教えるのも良いかもしれない。
ウルスラは胸の中でそう考えて、うんうんと小さく頷く。
「あっ、奥様!」
「え、あ、お帰りなさ……、きゃあ!」
「わぁ!」
ターンの時にこちらの姿を捉えたのだろう。
マイケルが声を上げると、マリアンヌがウルスラの方を見ようとして体勢を崩し、そのまま二人はターンの勢いそのままにべしゃりと床に転げてしまった。
周りで見ていたメイド達が慌てて駆け付けて確認するが、どうやら怪我はなかったようでウルスラはほっと胸を撫で下ろす。
「二人とも、頑張っていますね」
ホールに入ってウルスラがそう声を掛けると、マリアンヌは真っ赤になってぶんぶんと首を振った。一緒に黒髪のおさげも揺れている。
「ターンの度に転んじゃうし、ステップは覚えられないし、散々だわ!」
「ダンスは慣れですよ。回数を重ねれば自然と身体が覚えます」
「本当?」
「えぇ、私は嘘は言いません」
侍女の手を借りて立ち上がったマリアンヌの前髪を指先で整えてやりながらウルスラが言えば、マリアンヌの横でマイケルも恥ずかしそうにベルナールにダンスのコツを聞いている。
性別に関係なくダンスは社交界で必修スキルと言って良い。
しかもマリアンヌのデビュタントの際、エスコート役がマイケルになる可能性は捨て切れない。
ベルナールはふむと考え込み、そしてウルスラの名を呼んだ。
「ウルスラ。二人に一度手本を見せてやるのはどうだろうか」
「手本、ですか。しかし執務室に料理長を呼んでおりますし……」
言いかけて、ウルスラはマリアンヌとマイケルから期待に満ちたきらきらとした視線を送られている事に気が付く。
逡巡の後、差し出されたベルナールの手にそっと自らの手を重ねた。
「一曲だけですよ」
ウルスラの言葉にマリアンヌとマイケルは表情を輝かせながら何度も頷き、二人の邪魔にならないようにホールの端へと移動する。
しんとメインホールに僅かな沈黙が満ちて、ベルナールの合図で侍女がピアノに指を滑らせた。
(相変わらず素晴らしいリードだわ)
ベルナールの安定感のあるリードに身を委ね、ウルスラも流れるワルツに合わせて軽やかにステップを踏む。
結婚してからは社交期の夜会でも度々ダンスの機会はあったが、こんな明るい内に、しかも外出用ドレスのまま踊るのは初めてだ。
周りにいるのがマリアンヌとマイケルをはじめ、家令や侍女にメイド達という見知った面々であるからか、社交の場でいつも感じる緊張感も無い。
ウルスラもこの時ばかりは今回の一件で考えるべき事が膨らんで重くなっていた胸の内を忘れ、どこか清々しい気持ちで踊る事が出来たのだった。