26.教え導くという事
ギルベルタ・シュタインは、年齢というよりもこれまで彼女が重ねて来た経験そのものを感じさせる、岩のような威厳を纏った初老の女性であった。
白髪混じりの髪を一筋のほつれもなくきっちりと結い上げ、その眼差しには厳粛さが表れている。
その姿を見れば、先程のマルグリットの出立ちは彼女を真似たものなのだとよくわかる。
雰囲気も相まって何だか修道院のシスターのようだわと思いながら、ウルスラは起立してギルベルタを迎え、長い時間待たせてしまった事を詫びてから椅子をすすめた。
「シュタイン先生、突然お呼び立てして申し訳ありません」
「構いません。マリアンヌ・アルヴィエについてでしたね。あの娘には誰もが手を焼くであろう事は容易に推測出来ておりました。それで、何をお聞きになりたいのです」
ギルベルタに温度の混じらない冷たい声と視線で無表情に問われ、ウルスラは一瞬言葉に詰まった。
(私も周りからはこう見えているのかしら)
表情も動かず、声音も冷たく、ただ淡々と問い掛けるというのはこうして実際に対峙してみると実に不安を煽るものである。
やはり何かしらの行動をもって相手に気持ちを伝えなければ誤解されやすいのは明白だ。
自身への今後の課題点を見出しながら、ウルスラはギルベルタから目を逸らす事なく口を開いた。
「シュタイン先生が後任へ残された手引書を拝読致しました。とはいえこれは写しですが。その上で率直にお尋ねします。何故先生は、マリアンヌの教育において体罰を推奨したのですか」
先程マルグリットによって書かれたその手引書の写しには、カミラの供述通り体罰は教育のために有効な手段であると記載されていた。
マルグリットの話とも合わせて考えれば、マリアンヌへの体罰はギルベルタ・シュタインがその種を蒔き、マルグリット・ルイズがその芽を育て、カミラ・ブルナーが花を咲かせたといったところだろうか。
三人の大人に代わる代わる痛めつけられ、マリアンヌの恐怖と絶望はとても大きなものだったはずだ。
慎重に事を見定めなければと思うウルスラに対し、ギルベルタはごく簡単に答えた。
「それが必要であり、有効だと判断したからです。あの娘は落ち着きもなければこちらの言葉に口答えまでしてみせるとても反抗的で生意気な娘でした。あのくらいの年齢ならば、社交の世界に立つ令嬢として相応しく在る為に、痛みによる矯正は実に有効な手段なのですよ」
そして続けて言った。
「まだ子を持たぬレインバード伯爵夫人には、令嬢教育がどのようにあるべきか理解出来ないのでしょうね」
ギルベルタの言葉には重みがあった。
これまでの年月で培った令嬢教育のノウハウは、確かに今の社交界で活躍する夫人、令嬢の中に色濃く息づいているのだろう。
それはこの国の社交界の歴史の一端を担っているとも言い換えられる。
子供の教育という分野において、圧倒的な経験の差を突きつけられ、ウルスラははくりと小さく息を呑んだ。
「……確かに私にはまだ子はおりません」
けれどウルスラは目を逸らす事も、俯く事もせず、凛と背を伸ばして言った。
「しかし、私はシュタイン先生の仰る教育方法に賛同する事は出来ません。先生はマリアンヌを反抗的で生意気だと仰いました。確かにお転婆で気の強いところのある娘です。けれど彼女は明るさと共に優しさを備えた立派な淑女の卵です。彼女がデビュタントを迎えれば、きっとこの東部地域の社交界を担う人材となります」
そう断言したウルスラに、ギルベルタは溜め息混じりに首を振る。
「いいえ。私は長年多くの令嬢達を見てきました。ですから社交界については貴女よりも数倍深く理解しております。今の社交界で必要とされるのは従順で慎ましく、可憐な令嬢です。私が早々にアルヴィエ家に暇を告げたのは、マリアンヌはその性質を全く持たないとすぐにわかったからです」
「マルグリット・ルイズは経歴に傷が付くと言っていましたが、先生も同様のお考えですか」
「当然です。あぁ、マルグリット。あの子は生徒であった頃から私の言う事を何でも従順にききますからね。行き遅れの身ですが後任として私が推薦したのです。彼女なら、必ず私の手引書をそのまま実行するでしょうから」
その言葉を聞いて、ウルスラはぱちりと目を瞬かせた。
今、ギルベルタは何と言ったのか。
「それでは……先生は……」
震える声でウルスラは問うた。
「マルグリット・ルイズが先生の手引書に従ってマリアンヌを痛めつけると解っておられたのですか……?」
「勿論です。けれど大して効果はなかったようですね。マルグリットも使えない娘だ事」
ギルベルタの答えに、ウルスラの手の中でばきんと乾いた音がした。
強く握り締め過ぎた事で扇子が折れたのである。
元々繊細な細工の脆い扇子ではあるのだが、それが折れるまで握り締める事などそうそう無い。それだけウルスラの怒りは強いものだった。
自らは早々に手を引いておいて、ギルベルタはマルグリットがどんな行動に出るか解っていてあの手引書を残した。カミラはあの手引書を悪魔の書と言ったが、まさにその通りであったのだ。
そして彼女の思惑通り、種はマリアンヌの苦痛を肥やしに花を、そう、悪の花を咲かせてしまった。
「……先生に申し上げたい事がございます」
いつもなら硝子玉のように澄んだウルスラのヘイゼルの瞳は、いまや怒りで暗く光っていた。
今この場に夫がいなくて良かった。無表情は変わらずとも、きっと自分は酷い顔をしているに違いないから。
そう思いながらウルスラはギルベルタを見据え、低い声で続けた。
「先生は確かに令嬢教育の権威でいらっしゃるのでしょう。今社交界に身を置く令嬢達、ご婦人達も先生の教えを受けて立派に淑女として日々過ごしている事と思います。私も社交界に出る身として、先生の仰る通り礼節を重んじ、慎み深くある事の大切さは理解しているつもりです。ですが先生。先生は幾つか思い違いをしていらっしゃいます」
ウルスラの言葉にギルベルタの眉がぴくりと動く。
しかしギルベルタは何も言う事はなく視線で先を促した。
変わらずに姿勢を正し、ウルスラは怒りで震える唇を動かして淡々と言葉を続ける。
表情には出ずとも、彼女の胸に溢れる怒りが空気に滲み、部屋の中にはピリピリとした緊張感が満ちていた。
「……先生。先生は子供が言う事を聞かない時は痛みを与えるべしと、体罰は教育のために有効な手段だと、そうお考えのようですが、痛みで子供を押さえ付け自分の意のままに振る舞うように強制するのは、教育ではなく、支配です。教育とは教え導く事。支配とは全く意味の違うものです。貴女は自分に従順な一般的に優秀と呼ばれるお人形さんを量産して自分の勲章にしたいだけ。子供達は己の経歴を誇る為の勲章ではありません。子供の頑張りは親や教育者の功績ではなく、あくまで子供の努力の結果です。そんな事もお忘れでしたら早々に田舎にでも居を構えて隠居なさる事をお勧め致します」
一息に言い終わったウルスラは息切れを起こして小さく肩を上下させた。
言いたい事を言った事で怒りは幾分か収まっていたが、それでもまだ腹の中がもやもやしている。
心を鎮める為に大きく呼吸をすると、ギルベルタがすぅと目を細め、値踏みする視線でウルスラを見た。
「……レインバード伯爵夫人は、この私を非難なさるおつもりですか」
「先生が考え方を改めないようであればそうなります」
「私は王都の貴族家にも強い繋がりを持っています。いつか後悔する事になりますよ」
コネクションは貴族にとって何よりの武器だ。
それをチラつかされてウルスラは一瞬どうしたものかと逡巡し、けれど既にあれだけ言いたい事を言ってしまったのだと思い出す。
社交界での真っ向勝負なら貴族夫人として受けて立つところだと、ウルスラは上品にカーテシーをして言った。
「どうぞ、ご随意に」
元々社交界であれこれ言われるのには慣れているし、今更噂が一つ二つ増えたところで何だというのだ。
屋敷に戻って事の顛末を説明したらベルナールは戸惑うかもしれないが、飛び交う噂を信じてウルスラを疑うような事は絶対にしないという確信がある。
今の自分にとって大切な事は、マリアンヌの心を守り、立派な淑女へと導く事だ。
その為に陰で何を言われたって気になどするものか。
そう決意を新たにしたウルスラが、ギルベルタに退席を求めようと唇を動かしたその時だった。
「ご機嫌よう、シュタイン女史」
「……ご機嫌よう、ティトルーズ公爵夫人」
二人がいる部屋の次の間からドアを開けて中へ入って来たのは、待機していたデルフィーヌであった。
「先生とは花嫁学校の講義以来ですわね。お話、じっくり聞かせて頂きました」
「公爵夫人ともあろうお方が盗み聞きなど、はしたない事」
「あら、お褒めに預かり恐縮ですわ!」
ギルベルタの嫌味に怯む事なく、デルフィーヌはカツカツとヒールを響かせ、ウルスラの隣に立つとにっこりと微笑んだ。彼女お得意の冷たい笑顔だった。
「先生。教育というものは時代と共に更新されて然るべきものですわ。伝統は守らねばなりませんけれど、悪しき慣習は我々の代で葬り去らねば」
「まさか、私を排斥なさるおつもり」
「そこまで言うつもりはございません。でも、私に子供が出来ても先生に家庭教師を頼む事はないでしょうね」
東部地域最高位の女性であるティトルーズ公爵夫人その人に教育者として不要だと言われ、ギルベルタは流石に色を失った。
功績を大切にする彼女にとって、公爵家から拒絶された事はとんでもない痛手だったのだろう。
そのまま使用人の案内でよろよろと部屋を出て行く彼女を見送り、ウルスラとデルフィーヌはちらと互いに視線を交わした。
「……首尾は」
「レインバード伯爵夫人たら誰に向かってものを言っているのかしら。当然、上々よ。家庭教師がマリアンヌ・アルヴィエに体罰を与えていたという事実は貴女の指示通り使用人通路に潜んでいたアルヴィエ伯爵夫妻が聞いていたし、体罰なんてものを推奨する家庭教師達は今後この東部地域で教鞭を取る事が出来ないよう私が根回しをしておくわ」
「カミラ・ブルナーは反省していたようです。しばらく様子見を」
「お優しい事。よろしくてよ。そうね、南部の親戚のところにでも預けようかしら」
「それがよろしゅうございます」
そこまで一気に確認すると、二人は糸が切れたように同時にどさりと部屋の長椅子に身を預けて、深く長い溜め息を吐いた。
「……シュタイン先生は相変わらず怖いし、本当に疲れたわ。この貸しは高くてよ」
「……幾らでもお取り立て下さいまし」
「その言葉、忘れない事よ」
一仕事終えてのし掛かる疲労感から、二人の貴婦人は今だけは貴婦人の矜持を忘れ、初めての夜会の後の令嬢のようにぐったりと長椅子にその身を預けるのだった。
──しばらくして使用人が熱い紅茶を運び、再びアルヴィエ伯爵夫妻との話し合いに臨んだ二人は、長いようで短い一泊の滞在の後、ようやく帰途に着いたのである。