20.伯爵令嬢マリアンヌ・アルヴィエ1
迎えた朝はどこまでも晴れ渡っていた。
世話を担当するルームメイド達に起こされ、マリアンヌはがばりと跳ね起きた。
いつも渋々といった様子でもそもそとベッドから降りてくるので、メイド達はその機敏な動きに大層驚き、何かあったのかと顔を見合わせる。
「……あの、お願いがあるのだけど!」
そんなメイド達に構わず、マリアンヌは家から持ってきた大切な小箱をメイドに差し出して言った。
「今日はこの髪留めを使ってほしいの」
小箱の中からマリアンヌが取り出したのは、彼女が十歳の誕生日を迎えた際に祖母から譲り受けた銀細工の上等なバレッタだった。
バレッタには精緻な彫刻が施され、部屋に差し込む陽光にキラキラと輝いている。
その髪留めを見てメイドはほんの少しだけ戸惑った表情を浮かべた。
「けれどお嬢様。これは夜会で使うような髪留めです。髪型はいかが致しましょうか」
「それは、えっと、私は詳しくないから任せるわ。でも今日は特に気合いを入れて臨まなければいけないのよ。お願い」
決意に満ちたマリアンヌの表情に、メイド達は改めて目配せを交わし、一番手先の器用な一人が承ったと頷いて前に出た。
「かしこまりました。今日はいつも以上に丁寧に結わせて頂きます」
デビュタント前の娘は髪を下ろしたスタイルが一般的だ。
髪を結い上げているのはデビュタントを迎えた正式な貴婦人である証だからである。
いつもは長く伸ばした黒髪を左右二つの三つ編みにして肩から垂らしているマリアンヌだが、今日は髪をハーフアップにして編み込みと一緒にバレッタで留めた。ドレスや靴も髪型に合わせて持ってきた中で一番上等なものにした。
鏡で見た己の姿にひとり頷いて気合いを入れる。
(今日は特別な日だもの)
また泣いてしまうかもしれないけれど、でももう逃げない。
この屋敷から去る時は、子女教育を終えた時か、あるいはそれを諦めて修道院に入る為に実家に戻る時だ。
そう改めて決意したマリアンヌは、自分の朝食の前にとまだ眠そうな仔猫を抱き上げて厨房まで行き、山羊のミルクを薄めたものを温めて貰い、ちみちみと仔猫に飲ませながら何度も頭の中で朝の挨拶の予行練習を重ねた。
「チビちゃんの名前も決めなくちゃね」
満腹になったのかその場でうとうとし始めた仔猫を使用人に預け、少女は大きく深呼吸をしてから食堂へと向かう。
「おはよう、マリアンヌ」
「おはようございます、ベルナールお兄様」
「おはようございます。マリアンヌ」
「お、おはようございます。ウルスラ様」
既に着席していたレインバード夫妻から挨拶を受け、席に着く前に少しだけドレスの裾を持ち上げ軽く膝を折る。
重心がぶれて僅かによろめいてしまったが、それでも何とか形にはなったはずだ。
おそるおそる二人を見ると、いつも通りのウルスラと目を瞬かせているベルナールが見えた。
上手に出来なかったからがっかりしたのかしらと思ったマリアンヌだったが、すぐにウルスラがこっくりと頷き良い挨拶だと言ってくれたので安堵して席に着いた。
そういえば今朝のウルスラは見慣れない青いリボンを使って髪を美しく結い上げている。
伯爵夫人ともなると日々の髪型にも拘りがあるのだろう。
今日はマリアンヌも髪型には気を遣ってみたが、ウルスラからしたら子供っぽく見えてしまうかもしれない。
そんな風に思いつつも、今まで彼女が青い色の小物を使ったところを見た事がなかったので、マリアンヌの中でウルスラの青いリボンは強く印象に残った。
「マリアンヌ」
「はい」
「今日の授業はお休みとします」
「えっ」
朝食が運ばれてくる前にウルスラからそう告げられ、マリアンヌは驚きに目を丸くした。
今日はしっかり授業を受けるのだと気合いを入れてきたのに、これでは何でもない日にただめかし込んだだけになってしまう。
せめて話だけでもしたいと申し出るべきだろうか。それよりも今日授業がないのにはどんな理由があるのだろうか。
不安に駆られるマリアンヌにウルスラは淡々と続けた。
「今日は私のお手伝いを頼めますか」
「お手伝い……?」
「えぇ、孤児院への寄付金を募る貴族夫人グループ主催のバザーがあるのですが、そこに出品する刺繍小物の手伝いをお願いします」
そう言われてマリアンヌは眉尻を下げて泣きそうな顔をした。
「あの、私、刺繍はした事がなくて……」
せっかく話ができそうだったのに、やっぱり自分は何にも出来ない。
しょんぼりと俯くマリアンヌの様子に、ウルスラは少しだけ考えてから再び口を開いた。
「刺繍以外にも布や糸の裁断、作った小物の整理やラッピングなど、仕事はたくさんあります」
「あっ、私、リボンを結ぶのは得意だわ」
ようやく自分に出来そうな事があるとパッと表情を明るくしたマリアンヌに、ベルナールとウルスラはちらと視線を交わして頷く。
ウルスラは昨夜の内にベルナールに自分の予想を話しており、そういった話をするのであれば授業以外のもっと砕けた雰囲気の方がマリアンヌも話しやすいのではないかと二人で考えていたのだった。
どうやらマリアンヌにも心境の変化があったようだし、今日こそきっと話が出来るだろうと確信した夫妻は、第一段階を乗り越えた事にホッとしながら朝食に取り掛かるのだった。