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3.レインバード小伯爵の困惑

 ベルナールが後継者教育を受け始めて数ヶ月が経った。

 どうやら弟のセレスタンは、いつか兄が家に戻りレインバード家を継ぐ事こそ正しいと信じ、己の留学とベルナールの教育の為の準備を進めていたらしい。


「全く、お前は要領がいい」


 領地の利益算出について非常にわかりやすく整えられた弟手製のノートを読み込みながら、ベルナールはそう呟いた。

 ベルナールがノートを読む間、セレスタンも留学の為にもう少し語学を学んでおきたいと言って外国語の本を読んでおり、聞こえた兄の言葉に肩を竦めて悪戯っぽく笑う。


「どうかな。いつかは兄さんを説得して家に戻ってもらうつもりだったけど、まさかこんな風に戻るだなんて思わなかったし」

「そうだったのか。これもまた怪我の功名というやつか。……まぁ、俺が次期当主に収まるというのは騎士団への報告としても良いものだし、結果的にこれで良かったんだろう」


 商業地区の利益算出と農場の利益算出について違いをまとめたページを開いていると、ふとセレスタンが思い出したように言った。


「そういえば、あの子、名前はなんだったっけ。あの、兄さんが庇った子はまだ落ち込んでいるのかな」

「マイケルか。どうだろうな。小隊長殿が面倒を見て下さる事にはなっているが」

「自分を庇って先輩が怪我した上に、その怪我がもとで退団だもんなぁ。責任を感じるなって言う方が無理だよ」

「あれは事故だ。誰のせいでもないし、何度も大丈夫だと言い聞かせはしたんだが……。それに既に新しい生き方を見つけた今となっては俺ももう騎士の道に未練はないしなぁ……」

「それは兄さんだからでしょう。次に王都に行く時、小伯爵らしくビシッと決めて騎士団に顔を出す事をお勧めするよ」


 元気な顔を見せて来いと言われ、そんなものかと思いながら頷けば、「これだから兄さんは」と弟に苦笑されてしまった。

 定期的に診察の為に騎士団内の医療施設を訪れる事になっているので、その時にまた確認してみようと決めて、とにかく今は勉強だとノートに視線を落とす。

 騎士団に入るため、在学中に父から基礎教育を受けた経験があったベルナールは、そういえばこんな事を習ったなと過去の記憶を引っ張り出しながら弟から指導を受けている。

 あの時はそれが騎士団入団の条件だったので必死に勉強したのだが、その時の勉強がここで活かされようとは思わなかった。

 弟曰く、予想以上に飲み込みが早いため進行は順調との事らしい。

 しかし何を基準に順調と言っているのかはわからないので、ベルナールは驕ることなくただひたすら己の中に知識を詰め込むのみだった。


「……セレスタン。あとどのくらいあるんだ」

「今日の分はあとノート三冊分かな」

「……そうか」

「今、聞かなきゃ良かったって思った?」

「まあな」


 まだ昼前だが、今日も夜までみっちり講義を受ける予定である。

 夜には父からも講義を受けるのでそれまでにその他のノルマをこなさなければならない。

 あぁ、息抜きに身体を動かしたい。思い切り剣を振りたい。そろそろ運動を解禁したとて医師も怒りはしないだろう。

 ベルナールがそんな事を思っていたその時、ノックもなく部屋のドアがバァンと音を立てて開かれた。

 使用人がこのようにドアを開ける事など絶対にない。一体何事だと身構える兄弟に向かって叩きつけられたのは張りのある母の言葉。


「──ベルナール! あなた、婚約なさい!」


 その言葉に、ベルナールは思わず手にしていた羽ペンを取り落とした。


「婚約……?」


 あまりの困惑にかろうじてそれだけ呟いたベルナールだったが、母の言葉は流石に衝撃だったのか隣にいる弟もポカンとした顔をしている。

 茶会にでも参加してきたのか、外出用ドレスを纏ったままの母は生き生きとした表情を浮かべて、畳んだ扇子を手の中でパシパシと打ち鳴らしながら言った。


「えぇ、正式に次期当主となったのですから伯爵位を継ぐにあたり、お前を支える妻が必要でしょう。それに、屋敷の差配は女主人たる妻の役目です。どこか良い家柄の娘と早々に婚約なさい」

「しろと言ってすぐ出来るものでもないでしょう、母上」

「だから早く行動なさいと言いに来たのです。これは先延ばしには出来ませんよ、ベルナール。レインバード家の妻となる者には相応の教養と品格が求められます。その辺の令嬢に務まるものではありません。わたくしからも女主人としての教育をする必要があります。ですから、早め早めに行動し、これはと思う令嬢を片っ端から確保するのです」

「確保って……。母上、あまりにも突然過ぎます。一体何をお考えなのですか」

「──早く私に義娘をちょうだい!」


 そっちが本音か、とレインバード兄弟は同時に思った。

 母がずっと娘が欲しかったと言っていたのを二人は知っている。

 てっきり何かのタイミングで養子でも取るかと思っていたのだが、今までそんな素振りはなかったのでベルナールもセレスタンも母が諦めたものと思っていた。だが、実際全く諦めていなかったらしい。

 思えば、これまで次期当主だったセレスタンは、自身の思惑により母から再三の婚約者を作れコールをのらりくらりとかわしていた。

 母としては、次期当主云々の件もあっただろうが、娘が欲しい母の要望そのものでもあったのだろう。

 その点、この度次期当主となったベルナールは今後家門の為に尽くすと両親に誓っているから、結婚は避けて通れない道だ。

 実際問題、早い方が良いという母の言い分にも一理ある。

ベルナールはやれやれと小さく溜め息を吐いた。


「……しかし、良い家柄の娘と言っても、その殆どが既に婚約済みではありませんか?」

「国内全ての令嬢が婚約済みという訳ではありません。近場で済ませようとせず、広く婚約者を募るのです」

「ですが私はご覧の通り、後継者教育だけで手一杯ですから、とてもそちらに時間を割く余裕などありませんよ」

「ではこの母がお前の婚約者を見付けてきましょう。ベルナール、セレスタン。お前達は安心して後継者教育に励みなさい」


 そして嵐のようにやってきた母は、来た時のように唐突に去っていた。微かに母の高笑いが聞こえるのは気のせいだろうか。

 しんと静まり返った部屋の中で、引き攣った笑みを浮かべながらセレスタンが言う。


「……兄さん、釣書に埋もれる覚悟をしておいた方が良いかもしれないよ」


 その言葉にベルナールは思わず机に突っ伏してしまった。

 まだ乾いていないメモ書きのインクが顔に付いたが、気にする余裕もなかった。

 先程の母の様子では、ベルナールが婚約者探しに割く時間がないのを解っていて、代わりに自分がそれを推し進める権利を得たかっただけだろう。

 母は社交界で広く交流を持ち、何なら国外にも交友関係を持っている。

 あの勢いでは本当に年頃で家格の見合う家の令嬢達の釣書を根こそぎ掻き集めかねない。

 流石に他国の令嬢はないと思うが、このままではどうなるか全く予想がつかなかった。

 ベルナールは机に突っ伏したまま考えた。

 そして、考えて、考えて、考えぬいた結果、ぼそりと呟いた。


「……俺が釣書の海で溺れ死んだら後は頼んだ」

「嫌だよ。僕、留学するもの」

「薄情だぞ」

「大丈夫、これまで釣書による溺死なんて前例はないから」

「俺がその第一号になるかもしれないだろう……」


 レインバード兄弟が母の並々ならない行動力に一抹の不安を感じながら後継者教育を進めていく中、母はそれはもういつも以上に精力的に社交活動に勤しんだのだった。

 そして、嵐のような母襲来事件からしばらくが経った頃、当の母・アンジェレッタが再びやって来て満面の笑顔で言った。


「ベルナール! お前、アッシュフィールド家の娘と婚約なさい!」

「アッシュフィールド……?」


 家名から、何となく女伯爵の家門だなというイメージだけはある。

 というか、領地が離れていて特にこれまで交流もない家門なのでその程度の認識しかない。

 貴族の結婚とはいえ、縁もゆかりもない家門に突然婚約の申し込みなどして失礼に当たらないだろうか。

 新たな困惑を抱え僅かに眉を顰めたベルナールに、今日も講師役を務めていたセレスタンが無言で近付きポンと肩を叩いた。


「アッシュフィールドって言ったら西の方の歴史ある伯爵家だよ。そこの令嬢ならきっと教育も行き届いているんじゃないかな」


 婚約頑張れ、という声が聞こえてきそうな、こちらも満面の笑みだった。


「少なくともこれで溺死の危機は去ったね」


 ひそりと囁かれた弟のそんな一言に対し、ベルナールは一人、さて婚約の申し込みとは一体どのようにするものだっただろうかと、その方法について貴族作法を必死に思い返していた。


 ベルナールがアッシュフィールド家の長女、ウルスラの名前を知ったのはこの時であった。

 翌日、レインバード伯爵家は伝令用の上等な早馬を使い、アッシュフィールド伯爵家に婚約の打診について書面を送ったのである。


 アッシュフィールド家より是という返信が来たのは、書面を送ってから僅か一週間後の事であった。

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