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【連載版】伯爵夫人は笑わない【第二部完結】  作者: 文月黒
第二部

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18.落涙

 広い敷地とは言え、屋敷の裏手に行っただけでは戻るのにも時間は然程掛からない。

 マイケルのエスコートで屋敷の玄関へと戻ったマリアンヌは、無意識に緊張を解そうと肩でもぞもぞと動く仔猫に視線を落とした。

 仔猫はマリアンヌの緊張など知った事ではないと肩口を小さな肉球で揉み、落ち着くのに具合の良い場所を探している。


「マリアンヌ」

「あ……」


 けれど屋敷の玄関ポーチで不意に名前を呼ばれ、油断していたマリアンヌは足を止めてびくりと肩を揺らした。

 じっとこちらの様子を窺うウルスラはやはり人形のように無表情で、怒っているのか、それとも悲しんでいるのか、それすらもわからない。

 怖くなったマリアンヌが反射的に逃げ出しそうになったその時。


「奥様!」


 代わりに飛び出したマイケルが、まだどこかぎこちない所作でウルスラに礼をした。

 ウルスラはそれにこっくりと頷いて「大分上達しましたね」と声を掛けている。

 自分はそんな風に褒めて貰った事なんてないのに、とマリアンヌは一瞬思ったが、そもそも真面目に授業を受けた事がなかったのを思い出して、褒められる要素がなかったのだったわと項垂れた。

 真面目にやっているマイケルは褒められて、不真面目な自分は褒められない。当然のことだ。

 自分の態度を反省し、きちんと謝ろうと思って戻ってきたが、いざ対面すると自分の悪いところが多々脳裏をよぎり途端に言葉が出て来なくなってしまう。

 気まずい思いを抱えていると、ウルスラがマイケルに声を掛けた。


「マリアンヌを送って来て下さったのですね。手間を掛けました」

「いいえ! とんでもない事です。お嬢様とご一緒出来て僕も楽しかったです」

「さようで。……マリアンヌ? どうしました」

「あの、え、えっと……」


 急に話しかけられ緊張して何も言えないマリアンヌに、ウルスラはまさか外で怪我でもしてきたのかと慌ててマリアンヌに駆け寄り確認を始めた。

 そういえば木登りをしようとしたせいで髪も少し乱れているし、厩舎を歩き回った事でドレスも裾が汚れてしまっている。

 自分の状態を思い出し、マリアンヌは慌てて怪我はないと自己申告をした上で、肩口の仔猫を示した。


「この子が木の上にいて、それをマイケルが助けてくれたの。私は見ていただけ。何もしていないわ。だから怪我もしていないの」

「良かった。外はまだ日差しが強かったでしょう。体調を崩してはいませんか」

「……大丈夫よ」


 それはマリアンヌがこの屋敷に来てから初めての、ウルスラとのまともな会話だった。


「そう。中へ入って少しお休みなさい。体力があるようなら晩餐の前に入浴を済ませておくように」


 ウルスラはマリアンヌの返答に頷き、控えていた侍女に飲み物の用意をするように申し付けて屋敷に入るように促した。

 一言も先ほどの態度や言動を咎めたり、叱責する言葉は出てこない。

 それがマリアンヌには理解出来なかった。

 もしこれが実家だったら、家庭教師が飛んできて夕食抜きは確定だし、もっと悪ければ良い子になるまで『説教』だ。


「あの、私……」

「何です?」


 思わず口を開いたマリアンヌだが、その言葉は上手く続かない。

 話さなければと思うのに、何から話せば良いのかわからない。

 しばらくもごもごと口籠もっていると、肩口でみゃあと仔猫が鳴いた。


「マリアンヌ、まさか」


 仔猫の声に気付いて振り返り、玄関で動けなくなっているマリアンヌを見て、ウルスラが首を傾げる。


「その仔猫を飼うつもりですか?」

「え、あ……」

「随分と懐いているようですね」

「さっきから、離れないの。あの、飼っても、良い……かしら……」


 こんな事を言う為に戻って来たのではない。それはわかっている。

 しかしこんな些細な会話でさえ、口から心臓が飛び出してしまいそうなくらい緊張してしまっているのだ。

 今やマリアンヌの頭の中は『話をしなければ』と『謝らなければ』という言葉がはち切れんばかりに膨張し、ぐるぐると回っていた。


「……マリアンヌ。しかし生き物というのは玩具ではありません。世話も必要ですし、自分の想定しない行動をする事もありますから、それなりに覚悟も必要ですよ」

「わかっているわ」

「わかっているのならば結構。世話の仕方は猫を飼ったことのある当家の使用人から指導を受けるように。しばらくの間は世話を手伝って貰っても構いません」

「飼っても、いいの」

「あなたが責任を持ってお世話をするのでしょう。放り出さないと約束出来るのなら許可します」


 無表情に淡々と告げられた言葉は、マリアンヌを否定するものでも叱責するものでもなかった。

 言うべき事を言った上で、マリアンヌがどうしたいのかを最大限尊重してくれた言葉だ。

 マリアンヌは、頭ごなしにこちらの言葉を撥ね付け、否定し、全てお前が悪いのだと言われる事には慣れていた。

 諦めたように溜め息を吐かれるのも、うんざりしたような視線を向けられるのだって仕方のない事だと思っていた。

 言ってもわかってもらえない。言葉すら聞いてもらえない事もある。

 それがまだデビュタントすら迎えていない少女の『当たり前』だった。

 だからだろうか、ウルスラは家族達とは違うのだと胸の奥で理解した瞬間、マリアンヌの目からは堰を切ったように涙が溢れて止まらなかった。


「マリアンヌ? どうしました。やはりどこか痛むのですか」

「違うの。……違うのよ」


 珍しく狼狽えた様子のウルスラがマリアンヌの肩を撫でようとして手を伸ばすが、すんでのところでその手を引っ込める。

 手の甲で拭っても拭っても涙はマリアンヌの頬を濡らし、雫が鼻先に落ちた仔猫が驚いたように一瞬硬直して不思議そうな顔で少女の顔を舐めた。


「大丈夫ですか?」

「う、うぅ……」


 心配したマイケルがジャケットの袖口で優しく涙を押さえてくれたが、涙は止まる事はなく、少女は仔猫を抱いたまま心の中に抱えた棘を溶かすかのようにしばらく泣き続けた。

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