16.伯爵夫人ウルスラ・レインバード 2
しばらく唸り声を上げていたマイケルは、腕を組み、考え込むような顔をして言った。
「でも、でもなぁ……。僕、最近は厨房で昼餐や晩餐の料理の種類とか、給仕の仕方だとか、そういうのを中心に習っていて厨房によく行くから知っているんですけど、料理長がマリアンヌお嬢様の食べやすいメニューを選んで拵えているのだって、そもそも奥様の指示なんですよ。厨房にいる皆が知っていることです」
言われてマリアンヌは首を傾げて最近の食事の内容を思い出す。
そしてハッとして仔猫を抱いていない方の手で口許を覆った。
まだカトラリーの扱いが完璧でないマリアンヌは骨付き肉を食べるのが苦手であるのだが、貴族の食卓には割とよく出る一般的なメニューである。それが最近一度も出ていない。
それどころか、他のメニューもマリアンヌが無理なく食事が出来るよう、テーブルマナーの習熟度に合わせた内容になっていた。だからこそ自分は最近綺麗に食事が出来るようになっていたのだ。
他の事ばかり気になっていたから、そんな事に気が付きもしなかった。
不出来な生徒であるマリアンヌの為だけに、そのような手間を掛け、それを口にする事もしない。
もしかしたら、ウルスラという女性は自分が思っていたような人間ではないのではないだろうか。
「私、どうしよう……」
マリアンヌにはマリアンヌの言い分があるが、口にしなければそれをウルスラが知る事はないというのに。
これでは自分の一方的な八つ当たりにウルスラを付き合わせているだけではないか。
今まで自分の事を考えるだけで精一杯だったマリアンヌは、マイケルに言われてこの時初めて自分以外に目を向けたのだった。
しかしマイケルはマリアンヌの動揺に気付かず言葉を続ける。
「あと、奥様が笑わないのはいつもの事です。僕も見た事ありません。伯爵様も見た事ないかもしれません」
「そんな事があるの!?」
「信じられないのなら、他の使用人の方にも聞いてみれば良いですよ。行きましょう!」
そしてマイケルに引きずられるようにして厨房や洗濯室に案内され、マリアンヌはそこで使用人達にウルスラの笑顔を見た事があるかと聞いて回った。
さも当然とばかりに返ってくるのはいつも同じ答えだ。
「そんなの、この屋敷の誰も見た事がありませんよ」
その答えにマリアンヌはいよいよ困ってしまった。
世の中に全く笑わない人がいるだなんて思いもしなかった。
(これではお姉様達に『何にも知らないお子様マリー』って言われるのも当然よ。私、本当に何も知らないし、何もわかってなかった。ううん、わかろうと努力する事すら最初から諦めていた)
どうせウルスラも他の大人と同じ。
マリアンヌのことなんてどうでも良くて、こちらの話に耳も貸してくれないただの教師。
そう信じていたからマリアンヌはその通りに行動していた。
「ねぇ、マイケル。あなたから見て、伯爵夫人はどんな方?」
震える声でマリアンヌはマイケルに問うた。
指先を仔猫の鼻先に近付け、じゃれついてくるのを楽しんでいたマイケルは、マリアンヌの問い掛けに満面の笑顔で答えた。
「とっても優しくて、強くて、僕が知っている中で一番気品のあるご婦人です!」
マイケルの返答にマリアンヌは唇を噛んでしばらく心の中で葛藤した。
向き合うのは怖い。
でも何ひとつ知らないまま、向けられていたかもしれない優しい好意を撥ね付けて踏み躙ってしまうのはもっと怖い気がする。
緊張を和らげる為に無意識に仔猫を撫でながらマリアンヌは呟いた。
「私、取り返しのつかない事をしてしまったかもしれないの……。どうしよう……」
目に見えて落ち込むマリアンヌに、マイケルは少しだけ考えてから口を開く。
「えぇと。僕達、呼び方は違いますけど、どちらも見習いでしょう。見習いってつまり勉強中ってことで、たくさん失敗したり間違ったりすると思うんです。そういうのも一つずつ学んで、どうしたら良いか考えて、答えを見つけていきながら大人になるんじゃないでしょうか」
「どういう意味?」
「何があったのか僕にはよくわからないですが、マリアンヌお嬢様が反省してきちんと謝ったら奥様はきっと許して下さいますよ」
「そう思う?」
「はい。むしろ、ずっとそういうモヤモヤした気持ちをお腹の中に抱えたままって辛くないですか? 僕は嫌だな」
「そう。そう、よね……」
屈託のないマイケルの言葉はどうにも嘘のようには感じない。
だから一度だけ信じてみよう。そうマリアンヌは思った。
ちゃんと謝って、それでも許して貰えなかったら、その時はベルナールに言って子女教育を取り止めて実家に戻り、父の言う通り修道院に行こう。
撫で過ぎたのか、手の中の仔猫がもぞもぞと居心地悪そうに身動ぐ。
マリアンヌは仔猫を撫でる手を止め、大きく深呼吸をしてから縋るような目でマイケルを見た。
「あの、でもやっぱり怖いから、あなたもついてきてくれないかしら……」
「それは構いませんけど、仔猫はどうしましょう?」
マイケルの言葉にマリアンヌは仔猫をそっと抱き上げようとした。
けれどもその瞬間、しっかりとドレスに爪を立てられてしまう。
「もう、チビちゃんたらそんなにこのドレスが気に入ったの」
時間が経てば飽きて離れると思ったのに、一向にその様子がない。
どうしたら離れるのかと途方に暮れたマリアンヌだったが、このままこうしていてもきっとキリがない。
意を決し、仔猫を肩に引っ付けたまま、屋敷に戻る為にマイケルを伴って踵を返したのだった。




