14.仔猫と令嬢と木登り少年
「何をなさってるんですか?」
「きゃぁあ!」
いざ木に登ろうと幹を掴んだマリアンヌは、突然背後から掛けられた声に驚いて悲鳴を上げた。
同時に頭上でマリアンヌの悲鳴に驚いたらしい仔猫も声を上げたので、落ちやしないかと慌てて木の上を確認する。
仔猫はしっかりと枝にしがみついており、その姿を見てマリアンヌはホッと小さく息を吐いた。
そして悲鳴を上げるほど驚いた事を誤魔化すように咳払いをしてから、ゆっくりと振り向いた。
「何か御用?」
振り返った先にいたのは、自分と同じくらいの年頃の少年だった。
ふわふわの癖のある金髪の少年が首を傾げる様子は、人懐こい表情もあってなんだか仔犬のように見えた。
「えっと、ビックリさせてごめんなさい。木を掴んで何をなさってるのかと思って……」
「別に好きで掴んでる訳ではないわ。緊急事態なの」
「緊急事態……?」
マリアンヌがあれをご覧なさいと視線で木の上を示せば、少年もその視線を上へと向けた。
「あぁ、なるほど。降りられなくなっちゃったんですね」
木の上の仔猫を見つけた少年は、確かに緊急事態だと言って頷く。
次いでマリアンヌをジッと見つめて再び首を傾げた。
「木登りは得意ですから、僕が行きましょうか?」
「えっ」
マリアンヌは木の幹を掴んだままの自分の手と、突然現れた少年とを見比べた。
自分は木登りなどした事がないのだから、相手が得意だと言うなら任せた方がいいに決まっている。だって、幹を掴んだはいいものの、ここからどうしたらいいのかマリアンヌにはさっぱりだったのだ。
無言で場所を空ければ、少年はにこりとマリアンヌに微笑んでから仔猫を見上げた。
「すぐ行くから大人しくしているんだよ」
そう言って少年はするすると木に登り、あっという間に仔猫のいる枝まで到達した。
一体何を足掛かりにして登ったのか、横で見ていたマリアンヌにはまるでわからなかったが、得意だと言うくらいなのだからきっと何かコツでもあるのだろう。
「よしよし、おいで。もう大丈夫だよ」
少年は器用に枝に跨り、仔猫へと手を伸ばす。
最初は警戒して鳴いていた仔猫だったが、次第にゆっくりと少年の手に近付いていった。
ドキドキしながら下から見上げていたマリアンヌは、少年が仔猫を抱き上げてジャケットの懐に入れるのを見て安堵の息を吐く。
だが、それも束の間の事。
「すみません。そこ、危ないですよ〜」
「は?」
「少し下がっていて下さい」
「ちょっと、あなた、何を」
「いきますよー。えいっ!」
「きゃぁあああ!」
仔猫を抱いた少年が、枝の上から飛んだのだ。
だがそこはマリアンヌが背伸びをして腕を目一杯伸ばしても届かないような高さである。
思わず両手で顔を覆って悲鳴を上げたマリアンヌは、顔のすぐ近くで聞こえた仔猫の声にパッと顔を上げた。
「あ……」
マリアンヌに向かって差し出された少年の手の中で、青い目の仔猫がミィミィと鳴いている。
「無事みたいで良かったです」
「あ、あなた、あんな高さから飛んで何ともないの……?」
「あのくらいならへっちゃらですよ?」
マリアンヌの問い掛けにきょとんとした顔で少年は答えた。
マリアンヌからしてみれば相当な高さであるのだが、木登りを嗜む人間にとっては然程でもないのかもしれない。
少年から仔猫を渡されて、マリアンヌは腕の中のふわふわとした身体をそっと撫でる。
どこか緊張が伝わってくるのは、先程木から飛び降りたのが怖かったからかもしれない。
しばらく仔猫の背を撫でていると、ふと少年が言った。
「そういえば厩の方で仔猫が生まれたって言ってたっけ。そのうちの一匹かな」
「そうなの?」
「馬番の方が世話してたはずですから、行ってみましょう!」
「えっ」
少年に勢いよく手を差し出され、マリアンヌは思わずその手を取ってしまった。
まだお互いに挨拶すらしていない、名も知らない相手と手を繋ぐだなんて、きっと貴族令嬢としてはしたない行いだ。
けれど彼は仔猫を助けてくれたし、この屋敷にいるという事は身元もきちんとしているはず。
マリアンヌは胸の中でそんな言い訳をたくさん並べながら、駆け出した少年に遅れまいと繋いだ手をギュッと握り返して思い切り地面を蹴ったのだった。
「ここが厩舎? こっちには初めて来たわ」
「はい。騎士団の馬があっちで、伝令用の馬がその横で、こっちには伯爵様と奥様の馬がいるんです」
初めて訪れる厩舎は何だか独特の匂いがして、マリアンヌは慣れないその匂いにほんの少しだけ顔を顰めた。
だが少年に案内されて進むうちに、すぐ慣れてしまったから不思議なものだ。
興味に溢れた瞳でマリアンヌは辺りを見回して呟く。
「お兄様は昔から馬術もお得意だったと聞いているけれど……、あの人も馬に乗るの?」
あの人、という言葉が伯爵夫人ウルスラを示しているという事に気付いて、少年が首肯を返した。
「奥様も乗馬をなさるそうですよ。あの馬は奥様がご実家から連れて来たんだって、馬番の方が言ってました」
「そうなの……」
確かに活動的な一部の貴婦人は乗馬を嗜むと聞く。
マリアンヌの母や姉は馬が怖いと言って近寄りもしなかったので、マリアンヌも馬車を引く馬以外見た事はなかったし、屋敷の厩舎に近付く事もしなかった。
しかし、実際にこうして近くで見てみると、馬とは確かに身体は大きいがなかなか可愛い顔をしているように思う。
「ふぅん」
伯爵夫妻の馬を眺めながら、マリアンヌが乗馬というのは楽しいのだろうかとぼんやり考えていると、前方から大柄な男性が歩いて来て少年に向かって手を振った。
「おや、マイケル坊やじゃないか。こんなところでどうしたね。旦那様に付いてるんじゃあなかったか」
「こんにちは。今日はお休みの日なんです。それで、えっと、さっきこちらの方が仔猫を見つけて……」
「ほう?」
馬の世話を任されている馬番の男は、マイケルの後ろにいたマリアンヌを見ると、日焼けしたその顔に驚きの表情を浮かべた。
「坊や、お嬢様をこんな場所に連れて来たらいけねぇよ。綺麗なドレスが汚れるだろう」
「えっ、そうなんですか! ごめんなさい!」
慌てる二人にマリアンヌが首を振る。
「別に構わないわ。ねぇ、それよりこの仔猫はここの子で間違いないの?」
いつの間にかマリアンヌの肩口を登ろうとしていた仔猫を示して問えば、馬番は仔猫を見て間違いありませんと頷いた。
「ここで生まれたチビ助です。お嬢様のお手を煩わせて申し訳ありません」
「いいのよ。……あ、あら? ダメよ、おチビちゃん」
ようやく仔猫を帰してやれると思ったマリアンヌだったが、当の仔猫はマリアンヌのドレスにしっかりとしがみついていて離れる様子がない。
引き剥がそうとしてみたが、ドレスに立てた仔猫の細い爪が折れてしまいそうで、無理に力を込めるのは憚られた。
諦めたマリアンヌは、困った仔猫ねと溜め息を吐いてから少年と馬番に向かって言った。
「しばらくすれば仔猫もきっと離れるわ。それまでの暇潰しに、この辺を案内でもしてもらえるかしら」
その言葉に少年と馬番は顔を見合わせ、全く同じ動作でこっくりと頷いたのだった。