13.茨
ベルナールに相談し、マリアンヌへの対応を試行錯誤しながら授業を続け、あっという間に一週間が経った。
だが、マリアンヌはウルスラに心を開く事も、授業を真面目に受ける事もなく、教本を取りに行くと言ってそのまま脱走したり、ウルスラが座る長椅子のクッションの下に捕まえてきた蛙を仕込んだりと毎日やりたい放題である。
唯一進歩したと言えるのはテーブルマナーで、これは食事の席にベルナールがいる事が大きかった。
マリアンヌはベルナールの前では本当に普通の女の子になる。
多少の我儘を言う事はあるが、甘いものが食べたいだとか買い物に行きたいだとか、どれも歳相応の可愛いもので、山猫令嬢と呼ばれるような事は一切しない。
故に、ベルナールの前ではマリアンヌは伯爵令嬢らしく静かにカトラリーを使い、所作についてウルスラが指導しても多少ムッとした顔になるだけで癇癪を起こすような事もなかった。
(食事の時の様子を見る限り、むしろ所作は綺麗な方だわ。これまでお家でお姉様方の様子を見ながら自然に覚えた事もあるのではないかしら)
そう考えると今の振る舞いの数々は、むしろわざとやっているようにウルスラには思えた。
だが、何のためにそんな事をするのかがわからない。
頭を悩ませながらも、ウルスラはマリアンヌにやらせた詩曲の書き取りを確認する。
「マリアンヌ、ここの綴りを間違うのは何度目ですか。もう一度、この一節を書き写しなさい」
詩曲は基礎教養という事もあり、社交の場でも一節を引用して会話に用いるような事が多々ある。それは良い意味であったり、反対に悪い意味であったりするので、有名な作品については早いうちに暗誦出来るようにしておくべき科目だ。
だが、何度も同じところでミスをするマリアンヌに、ウルスラも日々の疲れもあってほんの少しだけ語調が強くなってしまった。
それを敏感に感じ取ったマリアンヌは、机の上の教本や書き取りの紙をなぎ払うように放って立ち上がった。
「もうやだ! どうせあんたも私の事何にも出来ないと思っているんでしょう!」
「マリアンヌ? 落ち着いて、席につきなさい」
「何よ、何よ! みんな嫌い!」
「マリアンヌ!」
「いやっ! 触らないで!」
何とか椅子に座らせようと肩に伸ばしたウルスラの手をマリアンヌが強く叩く。
バチンと大きな音がした事に一瞬だけハッとした表情を浮かべたマリアンヌだったが、座る事はせず、唇を震わせ何かを振り払うように叫んだ。
「あんたみたいに笑いもしない女、ベルナールお兄様が好きになる訳ないわ! あんたなんてお兄様に相応しくない!」
そして彼女は今日も部屋を飛び出してしまった。
ウルスラ付きの侍女がマリアンヌが向かった方角に視線を向けて厳しい声で言う。
「奥様! 今の態度はいくらなんでも酷すぎます。一度きちんと叱らないと子供のためになりません」
「そう、ね……」
だが、ウルスラはマリアンヌの行動に感じた不自然さの方が気になってしまい、どうにも叱る気にはなれなかった。
先程のマリアンヌによく似た光景を見た覚えがある。あれはいつの事だっただろうか。
(何か、何か見落としている気がする……)
結局その日の午前に予定していた授業は本人不在により全く進まず、午後の授業もこのままでは何も出来ないだろうとウルスラは溜め息を吐いた。
(こんな事ではいけないのに)
かつて、自分がまだ伯爵令嬢と呼ばれていた頃、婚約破棄を決めた直後は領内の何処かで教師になろうかと考えた事があった。
だが、教育とは何と難しいものなのだろう。
今更にして自分がどんなに軽率であったかを理解したウルスラだった。
「ふん。何よ、お高くとまっちゃってさ。にこりともしないで嫌な人!」
部屋を飛び出し、厩舎や畑のある屋敷の裏手を歩きながらマリアンヌはフンと鼻を鳴らした。
ズカズカと勢いよく一歩踏み出す度に、少女の背中で黒髪のおさげが揺れる。
新しい教育役であるレインバード伯爵夫人は、マリアンヌにつけられた家庭教師の中では一番若く、そして一番由緒ある家柄の女性だった。
今までマリアンヌの知っている淑女と言えば母と姉、それから親戚の女性達である。
叔母のアンジェレッタは昔からキラキラと輝いていてマリアンヌの憧れだったけれど、あのウルスラとかいうベルナールの伴侶は挨拶の時からマリアンヌに一度も笑いかけず、ただただ冷たい表情で淡々とマリアンヌに接してくるので正直あまり好きではない。
(きっと私の事が好きじゃないんだわ)
そう思うと少しだけ寂しい気分になったが、そんなのは今更だ。
家族だってついに自分を見放して他家に預けるくらいなのだ。
誰もマリアンヌの事を大切になんて思っていないし、誰もマリアンヌの事を見ない。
だからマリアンヌも目を閉じて耳を塞ぐ。
(みんなみんな大嫌い)
じわりと滲む視界を誤魔化すように袖口で目元を拭うと、何か小さな音が聞こえた気がした。
「何……?」
辺りを見回しながら耳を澄ませば、やはり何かが聞こえる。
「猫、かしら」
それはミィミィと鳴く仔猫の声のようだ。
しかしこの屋敷では猫は飼っていない。どこからか敷地内に入り込んだのだろうか。
「あっ!」
更に音のする方を探ってみると、なんと木の上に仔猫がいる。小さな仔猫は登ったまま怖くなって降りられなくなったのか、太い枝にしがみついて必死に鳴いていた。
思わず木の下まで駆けて爪先立ちで目一杯腕を伸ばしてみたが、マリアンヌの身長では指先すら枝に掠らない。
(どうしよう。誰かに声を掛けに行くのは嫌だわ。でもあの子は助けてあげたい。何か足場になるものを探す? でも私、どこに何があるのかまるでわからないわ!)
ベルナールなら助けてくれるだろうか。
でもそうしたら今日も授業を受けなかったと知られてしまう。怒られそうだし、それは嫌だ。
マリアンヌは木の下でうろうろと歩き回りながら、どうしようかと思案するが、仔猫の切ない声を聞くと落ち着いて考える事が出来なくなってしまう。
「あぁもう、お願いだから動かないで!」
枝の上の仔猫を見てマリアンヌが小さく悲鳴を上げる。
今ここから離れたら仔猫が枝から落ちてしまいそうで怖い。
けれどここにいたところで自分には何も出来はしない。
何も出来ないもどかしさにマリアンヌは悔しそうに顔を歪めていたが、自分がやるしかないのだと思い直し、おさげ髪を背に払い、意を決して両手を木の幹にかけた。




