12.山猫令嬢
ウルスラがマリアンヌに一番最初に教えたのは挨拶であった。
夜会でするような正式な礼はまた改めて教えていくにしても、簡単な挨拶の仕方は色んな場面で使うので知っておいて損はない。
まず自分がやってみせ、ポイントとなる点を説明してからマリアンヌにもやらせてみる。
「礼をする際そのように背を丸めてはいけません。もう一度」
けれど当の本人は全く集中した様子もなく、何度繰り返しやらせてみても適当にウルスラの言葉を受け流しているようにしか見えなかった。
小さく溜め息を吐いたウルスラがマリアンヌをひたと見詰めて言う。
「社交の場できちんとした礼が出来なければ、あなたが恥をかきます。真剣に取り組みなさい」
「やってますぅ」
「そうは見えません」
「何よ。やってるって言ってるでしょ! 大体私なんて、そんなの覚えたところで何の意味も無いわよ!」
「あっ」
飽きたと小さく叫んで部屋から飛び出すマリアンヌを、ウルスラは呆然と見送る事しか出来なかった。
マリアンヌはまだ子供だ。堅苦しい礼法の授業は楽しくはないだろう。けれど覚えなければ困るのは自分自身なのだ。
マリアンヌの癇癪に驚いて動くことの出来ないウルスラに、控えていた侍女が声を掛ける。
「奥様。メイドに連れ戻させましょうか」
「……しばらく様子を見てやって頂戴。親許から離されて、まだこちらの環境に慣れていないのかもしれないわ」
「かしこまりました」
ウルスラ付きの侍女は数名のメイドを呼び、マリアンヌを離れて見守るように指示を出す。
無理やり連れ戻す事だけは絶対に避けるようにとウルスラが付け加え、頷いたメイド達はマリアンヌを探しに部屋から出て行った。
「やはり人にものを教えるというのは、思った通りにはいかないものだわ」
部屋の長椅子に腰を降ろしてウルスラは再び溜め息を吐いた。
事前に母や義母から手紙でアドバイスを貰っていたのに、全く役立てられていない自分が情け無い。
「そういえば、私はどうのようにして作法を覚えたのだったかしら」
ウルスラは遠くを見るようにして昔の自分を思い出す。
自分は他の令嬢よりもデビュタントが早かった。
マリアンヌと同じ年頃の時分にはもう次期アッシュフィールド伯爵としての教育が始まっており、親に連れられて幾つかの茶会にも出席していた。
多分その頃にはもう『氷の令嬢』と呼ばれていたはずだ。
けれど母からゆっくりと淑女とは何たるかを教えられたので、特に辛い思いはしていない。
そこまで思い返して、自分ではあまり参考にならないとゆるく頭を振る。
『お恥ずかしながら、当家の屋敷においてあの子は使用人達からも山猫令嬢などと呼ばれる程に手が付けられなくて……。少し前から両親や私達姉の言葉にも反発してばかりだったのが、この頃は更に酷くなっていて、父はこのままでは修道院に送るしか無いと申しております。けれど、私は妹をそんなところに送りたくはないのです』
マリアンヌを残して帰っていった彼女の姉ロザリンドは、殆ど泣きそうになりながらウルスラにそう語った。ロザリンドにとってレインバード家での子女教育は最後の砦なのだ。
妹を想う姉の気持ちならウルスラは痛いほど解る。
ロザリンドの話では、これまでマリアンヌの為に数名のナースメイドや家庭教師が雇われ、その全てがマリアンヌお嬢様にはウンザリだと早々に屋敷を出て行ったという。
(ベルナール様に対して屈託無く話し掛けていた様子は至って普通の少女だったわ。それに、教育を受けても意味が無いだなんて、どうしてそんな事を思ったのかしら)
もしかしたらマリアンヌは、何かを抱え過ぎて意固地になっているだけなのではないだろうか。
社交の場で、家からの重圧によって他者に攻撃的になる令嬢は特段珍しいものではない。あそこは互いに家門の面子を背負って立つ淑女の戦場なのだ。
己をしっかり持たねば呑み込まれて潰れてしまう。
だからこそ、強くある為に他者に棘のある言葉を使ってしまう。いつかその棘が自分自身を傷付けると知っていても、倒れる事など許されないから。
そんな令嬢達がいる事をウルスラはよく知っている。
マリアンヌの目にはそんな棘持つ令嬢とどこか似た光が滲んでいたように思う。
だが、彼女はまだデビュタント前で社交の場に出た事は無いし、末の娘なので親から結婚を強要されている訳でもない。
何が彼女をそこまで追い詰めているのだろうか。
「マリアンヌとよく話せたら良いのだけれど」
呟いた言葉はしんと部屋に溶けて消えた。
今の自分はまだマリアンヌからの信用を得られていない。
そんな状態で胸の内を話せなどと到底無理な話だ。
「ベルナール様にだったら……」
あの子も素直に話してくれるかしら、と言おうとしてウルスラはハッと口を噤んだ。
ベルナールは今、伯爵として仕事をしながらマイケルを立派な従騎士として育てる為に己の時間を割いている。余計な時間はあまり取らせたくはない。
それにまだ子女教育は始まったばかりだ。諦めるのは早過ぎる。
(とりあえず今夜ベルナール様に相談だけはしてみましょう)
行き詰まったら相談するというのが二人の約束だ。
ウルスラは長椅子から立ち上がるとよし、と小さく気合いを入れた。
外国語にテーブルマナー、詩曲などの基礎教養に茶会での振る舞い方。
マリアンヌに教えるべき事は沢山ある。
デビュタントのドレスに合うアクセサリーも見繕ってやりたい。
立ち上がったウルスラは窓の外に視線を向け、マリアンヌを探して庭を歩くメイドの様子を見ながら言った。
「午後のスケジュールを少し調整しましょう。マリアンヌがまだ落ち着かないようなら休ませて構いません」
「奥様。差し出がましい事を申し上げますが、あの令嬢に甘過ぎはしませんか」
「そうかもしれません。けれどあの子が納得して自ら学ぶ姿勢を見せなければ、礼法というものは本当の意味で身に付きはしないでしょう」
幸いまだ時間はある。
何か言いたげな侍女も最後には頷いてウルスラに従った。
「ドレスは鎧。礼儀作法や話術は武器。全てを備えて向かわねばならないのが社交の場です。マリアンヌは幼さ故にまだそれを理解出来ていないだけ」
だから教えなければ。貴族令嬢として生きる為に必要な全てを。
ウルスラはピンと背筋を伸ばし、お手本のような美しい所作で侍女を伴って部屋を出た。
授業の内容を基本的な礼法からまずはとっつき易い簡単な外国語に変えてみよう。
ウルスラはどうしたらマリアンヌが楽しく学べるかという事に重点を置き、授業内容を思案しながら屋敷の図書室へと向かうのだった。




