11.少年と少女
「マイケル・アストンです。よろしくお願いします!」
ベルナールが所属していた騎士団の後輩にあたるマイケルは、出迎えたレインバード夫妻に対し緊張からかどこかぎこちない動きで頭を下げた。
彼はウルスラが受け入れる事になっている令嬢よりも数日早くレインバード伯爵邸に到着していた。
ここからマイケルは従騎士となる為に主人の身の回りの世話の仕方や貴族としての作法を学び、王国騎士団の試験を受けなければならない。
アストン家は男爵家であるが、その領地はかなりの僻地にあり、彼は貴族としてではなくほとんど平民のような生活を送って来た事が今回の従騎士修行の最たる理由だった。
王国騎士団は実力主義であり、平民でも試験を突破すれば入団できる。
しかし入団を許された貴族には、当然ながら実力のみならず貴族としての所作も求められる。
マイケルは貴族証明書を提出し、貴族枠として騎士見習いになっているにもかかわらず、平民同様の生活に慣れきっていて貴族としての自覚も無ければ、貴族としての教養も殆どなかった。そしてその振る舞いから周りも彼が平民であると誤認した。
これが発覚したのがそろそろ従騎士試験を受けるかどうかという話が出た頃である。
騎士を目指す貴族であれば、慣習としてもっと子供の頃に小姓として礼儀作法などを習っているものなのだが、マイケルは騎士団に入団してから雑用のこなし方と簡単な訓練を受けたのみ。
それ故に、事態の深刻さに慌てた小隊長が従騎士訓練の受け入れ先を探した結果、家名に力のあるレインバード家が挙げられたという訳だった。
その時、同じ隊の騎士達がこぞって口にしたのが「お前貴族だったのか」という言葉なのだという。
ベルナールは王都で同期の騎士からマイケルが置かれた詳しい状況を聞いて、一体どうしてそんな事になったのかと思ったが、実際なってしまっているのだから今更何を言っても仕方がない。
自分が手を貸す事で事態が好転するのなら、それに越した事はない。
ベルナールは自分が騎士団にいた頃を懐かしむように目を細めてマイケルに声を掛けた。
「まぁ、そう緊張しなくて良い。今日、マイケルは屋敷周りの案内を受ける予定になっている。わからない事は騎士団の教育役に聞くといい」
「は、はい。あのぅ、僕、これから先輩の事は何とお呼びすれば良いでしょうか。 伯爵様ですか? それとも、旦那様とお呼びした方が良いのでしょうか」
「あぁ、そうか。そうだな……」
ベルナールにとってマイケルは可愛い後輩であり、歳の離れた弟のような存在だ。
あまり他人行儀にならなくても良いと思いはするものの、彼は貴族の作法を学ぶ為にここに来ている。さて、どのように呼ばせたものか。
思案しながらベルナールは隣のウルスラへちらりと視線を向けた。
その視線を受けたウルスラは、小さく頷いて返してからマイケルに向かって淡々と告げた。
「マイケル様は当家の使用人ではありません。旦那様の事は、伯爵様とお呼びするのがよろしいでしょう。……ただし」
未だ緊張した面持ちのマイケルが、じっとウルスラを見上げて続く言葉を待つ。
ウルスラはベルナールとマイケルを交互に見遣ってから再び口を開いた。
「マイケル様には週に二日の休日が与えられます。与えられた休日に限り、今まで通りの呼び方をしても構いません」
今まで通りの呼び方をしても良い。
その言葉をじっくりと頭の中で反芻しきちんと理解したマイケルは、パッと顔を輝かせて頭を下げる。
ベルナールもウルスラの決定に満足そうに頷き、マイケルはレインバード騎士団の教育役に引き渡されて彼の為に用意された騎士団員用の部屋へと向かった。
明日からはベルナールの執務室と騎士団宿舎とを往復し、慌ただしい日々を過ごす事になる。
しっかりと前を見て歩くマイケルの背中は、以前より少しだけ広く見えた。
「旦那様。男子の成長とは早いものですね。あんなに背が伸びて……」
「ははは。まだまだこれからだろう。もしかしたら、ここに居る間に新しく服を仕立ててやらなければならなくなるかもしれない」
「まぁ、そんなに。旦那様も一気に身長が伸びたのですか?」
「あぁ。騎士団に入る少し前だったな。成長痛で身体中の関節という関節が軋んで地獄のようだった……」
ウルスラはその時初めて成長痛という言葉を知り、非常に衝撃を受けた。
自分も妹もそういうものとは無縁であったので余計に驚いたのだろう。
当のベルナールはしばらくすれば落ち着くのだと笑っていたが、ウルスラはマイケルがそんな事になってしまったら自分は何をしたら良いのかと真剣に考えるのだった。
──そして遅れる事数日。
「レインバード伯爵邸へようこそいらっしゃいました」
「あぁ、レインバード伯爵夫人。この度は当家の末娘を受け入れて下さり、心よりお礼申し上げます。お初にお目に掛かります。両親の名代として参りましたアルヴィエ伯爵家の次女ロザリンドでございます。マリアンヌ。あなたもご挨拶なさい」
「……どうも」
「もう、挨拶くらいまともにして頂戴」
姉ロザリンドに付き添われてやってきたアルヴィエ伯爵令嬢マリアンヌは、むっすりとした表情を浮かべてウルスラを見もしなかった。
社交活動の苦手なウルスラですら、ここまでの対応はした事もされた事もない。
思わずパチリと目を瞬かせた。
「ローザ、マリー。久しいな」
「ベルナールお兄様!」
けれど少し遅れて応接間にやってきたベルナールを見ると、マリアンヌは打って変わった様子で笑顔を浮かべ、その腕に戯れるように飛びついた。
「お兄様、本当に久しぶりだわ。ねぇ私大きくなったでしょう?」
「こら、マリアンヌ! 夫人の前ですよ。弁えなさい」
「何よお姉様ったら。私はベルナールお兄様の従姉妹よ。このくらい何でもないわ。ねぇ、お兄様!」
姉に咎められてもマリアンヌはツンとそっぽを向いて聴く耳を持たない。
いくら子女教育前と言っても、伯爵家の娘がこんなに奔放なものなのか。
これには流石にベルナールも困惑して妻を見た。視線の先の妻ウルスラも無表情に理解不能と首を振っている。
この少女を、デビュタントに相応しい淑女に育て上げなければならない。
ウルスラは己の肩にのし掛かった責任の重さを改めて実感し、気を引き締めなければと一度深呼吸した。
こうして、ベルナールはレインバード伯爵として、そして先輩騎士としてマイケルの従騎士教育に携わり、ウルスラもまたマリアンヌを立派なレディにするべく教育を開始したのである。
これがこれから二人に課せられる大きな困難のほんの始まりである事を、この時は誰も知る由はなかった。




