10.秘密のお茶会
公爵夫人に相談したい事がある旨の手紙を送って数日後の早朝、先触れを経て公爵家から迎えの馬車がレインバード家にやってきた。
支度を整えて待っていたウルスラが馬車に乗り込み、ベルナールに見送られながらティトルーズ公爵領へと向かう。
レインバード領とティトルーズ公爵領は然程離れてはいないので、ウルスラは日帰りで公爵邸を訪れる予定だった。
現在のティトルーズ公爵は王位継承権を放棄し公爵家に養子に入った王弟殿下の嫡男・ジュリアンだ。
そもそもこのティトルーズ公爵家は、何代か前に王位継承権を持っていた王族がその継承権を放棄する代わりに爵位と領地を与えられたのが始まりである。
その為、公爵領とは元々王家の直轄地でもある。
レインバード伯爵家が伯爵家筆頭家門であり、私兵となる騎士団の所有を許されているのも、偏に有事の際はレインバード家が公爵家の護衛役となる密命があるからだった。
公爵家の人々は代々美術的、文学的センスに長けており、パトロンとしての支援活動を主に行っている事で有名だ。
最近は当主のジュリアン主導で劇場の建設や若い画家の教育など手広く活動しているが、そこには当主を支える公爵夫人の活躍がある。
公爵家に到着し、来客用の部屋に通されたウルスラが部屋に飾られた美術品の素晴らしさに感嘆の息を漏らしたその時。
「ご機嫌よう。レインバード伯爵夫人」
複数の侍女を伴ってやってきた公爵夫人に声を掛けられ、ウルスラはソファから立ち上がって正式な礼を取った。
公爵家は貴族の最高位であると共に王族に連なる貴き身分である。
相手が友人だからといって礼を省くような不敬など、ウルスラに出来ようはずもなかった。
「お会い出来て光栄です、公爵夫人」
「そう。まぁ良いわ。相談がおありなのでしょう?」
鉄色の髪をした公爵夫人は一瞬だけ何とも言えない表情を浮かべたが、すぐに貴婦人の表情に戻って人払いを命じた。
侍女達はテーブルにお茶の用意だけして、命令通り静かに部屋を退出していく。
さすが公爵家の侍女ともなると、身のこなしも宮廷式だ。
無表情のまま感動していたウルスラは、相談という一言に本来の目的を思い出して口を開いた。
「はい。実は親戚の子女教育を頼まれたのです。しかし私は社交活動が得意ではありませんし、人にそういうものを教えた経験もありません。お話はお受けしたいのですが、私に務まるか不安で……。それでデルフィーヌ様のご意見を頂戴したく参りました」
元バダンテール伯爵令嬢、公爵夫人デルフィーヌは優雅に扇子を口許に添えてなるほどと思案顔になった。
「よろしいのではなくて? 子女教育も貴族女性の務めだわ」
「そうは思うのですが、人に教えるとなると不安があって。マナーブックも幾つか買い求めてはみたのですけれど、本によって記述が異なっている部分もあるのです。一体どれを参考にすれば良いでしょうか」
ウルスラが持参した数冊のマナーブックを取り出すと、デルフィーヌは目を丸くしてそれらを見た後で呆れたように溜め息を吐いた。
「マナーブック! マナーブックですって? そんな誰が書いたかもわからないもの、有り難がるのは成り上がりか身の程知らずの平民だけよ」
「そういうものなのですか」
「逆にお尋ねするけれど、貴女その本の著者をご存知?」
「……いえ」
指摘されて、取り出したばかりのマナーブックをそっとバッグへしまい込むウルスラに、続けてデルフィーヌが言った。
「そもそもそんなものに頼らずとも貴女の礼儀作法は宮廷の晩餐会でも通用するほど完璧でしょう。心配なら貴女が教わっていた家庭教師でも呼べばよろしいだけではなくて?」
その質問にウルスラはごく淡々と答える。
「私は淑女の振る舞いというものを全て母から教わりましたので、教師というのは経済学の先生のみです」
ピアノでも礼儀作法でもなく経済学。
それを聞いてデルフィーヌはやれやれとゆるく首を振った。
「貴女らしいというかなんというか……。レインバード伯爵は何と仰っているの」
「夫は応援してくれております」
「ならば頑張るしかないわね。伯爵だって騎士から伯爵家当主になるべく努力されたのだから、貴女だって経験がない事でもやってみたら良いのだわ」
デルフィーヌに言われてウルスラはぱちりと目を瞬かせた。その通りであるのにそんな事をまるで考えなかった自分自身に驚いていたのだ。
その様子は傍から見ると何だか瞬きをするビスクドールのようだとデルフィーヌは思ったが、当のウルスラは何に心を動かされたのか、そうしますとしきりに頷いていた。
「えぇ、何事も挑戦していかなければなりませんね。さすが、デルフィーヌ様ですわ」
「よくわからないけれど、やる気になったのなら良いわ。それに、今からその年頃の子供と接点を持つのは今後の為にも良いと思うのよ」
「……と、申されますと……」
デルフィーヌが最後に付け足した言葉について、いまいち理解の追いつかないウルスラが首を傾げる。
するとデルフィーヌは天気の話でもするかのような声音でさらりと答えた。
「今後授かるにしても養子を迎えるにしても、遅かれ早かれ私達は子供の教育に関わらなければならないでしょう」
家門の為に後継を育てる。
それは貴族家に嫁いだ女性にとって最も重要と言われる『仕事』である。
ウルスラとてそれを忘れた事はないが、幸いにしてベルナールや周りから急かされた事はなかった。
「レインバード伯爵だって早くお子をもうけたいのでは? ……えぇと、まさかとは思うけれど未だ白いままではないでしょうね」
「それは、えぇ、まぁ……」
突然の明け透けな問い掛けに、ウルスラは思わず俯いてティーカップを手に取った。夜の事を思い出してか、その耳が僅かに赤くなっている。
カップの中には無表情な自分が映っていたが、揺れる水面のように心には小さく細波が立っていた。
結婚してすぐの頃はベルナールも仕事に追われていたが、今はもう落ち着いてきているのだし、伯爵家の今後に大きく関わる事でもある。
そちらについても、そろそろ真剣に向き合わなければならない頃合いなのだろう。
「デルフィーヌ様。色々とやるべき事はございますが、まずは出来る事からやれるだけやってみようと思います。困った時にはまた相談に乗って頂けますか」
珍しく自身なさげにやってきたウルスラが、ようやくいつもの調子に戻ったのを見て、デルフィーヌはにこりと微笑みを返した。
「よろしくてよ。貴女がご実家にしまっているアレを渡して下さるのならね」
「それはそれ、これはこれです」
公爵夫人相手でも言うべき事は言うのがウルスラである。
デルフィーヌも冗談のつもりであったらしく、あらそうと軽く受け流してカップを持ち上げた。
「まぁ良いわ。デビュタントの夜会が決まったら是非知らせて下さる? 貴女の子女教育の成果を見物したいわ」
「ご期待にそえるよう精一杯尽力致します」
その後、東部地域の社交活動から政治の話まで、二人はあれこれと議論を交わし、ウルスラは実に有意義な時間を過ごせた事に満足して公爵邸を辞したのである。
そして、ベルナールとウルスラが各々話を取りまとめ、騎士見習いの少年とデビュタント前の令嬢がレインバード伯爵邸にやってきたのは、一際暑い夏の盛りの頃だった。




