9.二通の手紙
その日、ベルナールは朝から視察の計画について家令と打ち合わせており、ウルスラは領内の教会や孤児院への慈善活動の準備に勤しんでいた。
ウルスラの進言によりベルナールが仕事を代官に振り分けるようになってからしばらく経ち、慣れてきたこともあって少しずつ執務のペースに余裕が生まれ、二人は今まで通り一緒に息抜きの時間を過ごせるようになっていた。
「ウルスラ。準備の方はどうだい」
キリの良いところまで書類仕事を片付けたベルナールが、頃合いを見計らってウルスラの執務室を訪れ声を掛けると、ウルスラも作業の手を止めてベルナールを振り返った。
「えぇ。概ね調整できました。旦那様はいかがですか」
「こちらも視察の順番が決まったところだ。息抜きに君の顔を見に来たんだが邪魔してしまっただろうか」
「邪魔などではありません。お時間があるようならお茶に致しましょう」
良い茶葉を仕入れる事が出来たので、と、ウルスラが侍女に二人分のお茶の準備を申し付け、二人は家族用のサロンへと移動した。
サロンからは緑鮮やかな庭園がよく見える。とは言え、この庭園もメインの庭園ではなく、家族しか入ることの出来ないプライベートな小さな庭だ。
見せる事よりも寛ぐ事を優先して整備させた庭は、新婚旅行で立ち寄った小さな田舎町を思い出させ、二人ともその庭をとても気に入っていた。
「ウルスラ、東部の夏は初めてだろう。体調など崩してはいないだろうか」
「お気遣い有り難う存じます。今のところ問題はございません。旦那様はいかがですか」
「私はもう慣れたものだよ」
日々強くなる日差しに、互いの体調確認から会話に入るのがこの頃のお決まりである。
二人はその他に自分の抱えている仕事での懸念点などを幾つか話し合い、何か困り事がないかを確認していく。
ベルナールは実務経験のあるウルスラに領地運営のアドバイスやヒントを貰う事が出来たし、騎士時代に警護として上級貴族の茶会や夜会に参加していたベルナールの経験はウルスラにとって非常に参考になった。
自分一人で行き詰まってしまった時にはとりあえず話してみる、というのが最近設けられた二人の約束であったが、今のところそれは概ね良い方向に働いていた。
「旦那様、奥様。お手紙が届いておりますが、後ほど改めてお届け致しましょうか」
「誰からだ?」
寛いでいる夫妻の様子を見て出直そうとした家令にベルナールが問えば、家令は澱みなく答えた。
「旦那様には騎士団の小隊長殿から、奥様にはアンジェレッタ大奥様からそれぞれお手紙が届いております」
銀の盆に載せられた二通の手紙に、ベルナールとウルスラは互いに顔を見合わせてからここで確認すると伝え、それぞれ手紙とペーパーナイフを受け取る。
「こんな時期に小隊長殿から直接手紙が来るなんて珍しいな」
「お義母様も改めてお手紙を下さるだなんて、何かあったのでしょうか」
浮かんだ疑問を呟きながら開封した手紙を読み進めてしばらくも経たない内に、二人は全く同じタイミングで小さな溜め息を吐いた。
「旦那様、何か問題でも……」
「問題ではないが……。君はどうだ。母上は何と?」
そこで二人は無言で互いの手紙を交換して内容を確認し、今度は驚いたようにパッと顔を上げた。
「ウルスラもか」
「旦那様もでしたか」
ベルナール宛に騎士団から送られて来た手紙も、ウルスラ宛にアンジェレッタから送られて来た手紙も、突き詰めれば同じ事が書かれていたのである。
「……当家でマイケルの従騎士修行か……」
「お義母様の姪御さんの子女教育だなんて……」
騎士団からの手紙には、騎士見習いのマイケル・アストンの従騎士修行の為、しばらくレインバード家で受け入れてくれないかという打診が書かれていた。
そしてアンジェレッタからの手紙には、アンジェレッタの姪、つまりベルナールの従姉妹の子女教育をウルスラに頼みたいという旨が書かれていた。
「そうか……。マイケルもまず従騎士にならねば騎士にはなれないからな……。しかし王都の貴族家で事足りそうなものだが」
手紙には受け入れ先が見つからず、ベルナールを頼る事についての謝罪まであった。
けれども王都の貴族街はオフシーズンも領地に戻らず過ごす者達がそれなりにいるはずだ。
レインバード家でマイケルを預かり、貴族の作法と従騎士としての振る舞いを学ばせる事に何ら問題はないが、わざわざ東部の領にいるベルナールに連絡が来た理由がわからない。
はてと首を傾げるベルナールの隣で、ウルスラも全くの無表情ながら内心ひどく困惑していた。
(私には人にものを教えた経験など……)
本来なら家庭教師を雇い、家の中で行われる子女教育であるが、事情があってそれが困難であるのでウルスラに教育を頼みたいのだという。
アンジェレッタが家庭教師役になるつもりであったが、彼女はいまだ忙し過ぎる身の上なのでウルスラが候補にあがったらしい。
改めて最初から手紙を読み返してウルスラは考えた。
領地経営や世の中の経済の話ならば教える事は出来るだろう。
だが今回ウルスラに依頼されているのは子女教育である。
ベルナールの従姉妹(とはいえまだデビュタント前の少女である)を立派なレディにするだなんて、そもそも社交活動が苦手な自分に務まるのか。
しかしアンジェレッタが他でも無くウルスラを指名してくれたのだから、期待に応えたいと思う気持ちもある。
二人はしばしの間、手元の手紙にじっと視線を落としていたが、小さく頷いて先にベルナールが口を開いた。
「手紙だけでは事情がよくわからないな。ウルスラ、私は一度王都に向かい話を聞いてくる。……この話は受けるつもりでいるが、良いだろうか」
ウルスラも頷いて応える。
マイケルには王都で世話になった事もあるので、彼の助けになれるのならば否やなどあるはずもない。
「問題ございません。他でもないマイケル様の事ですもの。私もお義母様から頂いたこのお話、お受けしたく存じます。……しかし」
いつだって完璧に伯爵夫人としての仕事をこなすウルスラであったが、その時ばかりはほんの僅かな不安を滲ませてベルナールに言った。
「正直なところ、自信がありません。私もお友達のところに相談に行って参ります」
「友人、というと」
「公爵夫人ですわ」
ウルスラの友人の公爵夫人といえば一人しかいない。
そもそもこの国において公爵家の人間など数えるほどしかいない。
ベルナールはその『公爵夫人』の事を思うと何とも複雑な気持ちになったが、妻が東部地域で頼れる友人として彼女の事を心から信頼している事も知っている。
「そうか。公爵夫人にくれぐれもよろしく伝えてくれ」
なので、ベルナールは分別のある夫としてそう言うのがやっとであった。
ウルスラはそんな夫の胸の内を知ってか知らずか、いつも通り淡々と「かしこまりました」と頷いたのだった。