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2.アッシュフィールド家のあれこれ

「お前は! 一体何をしでかしたのか解っているのか!」


 部屋に響き渡る何度目かの怒号に、アッシュフィールド伯爵令嬢ウルスラは無表情のままびくりと肩を震わせた。

 男性の怒鳴る声というのは、どうしてこんなに怖いのだろう。

 けれど自分がまだ耐えられているのは、これが自分に向けられたものではないからだ。

 ウルスラはその怒号を向けられた本人である実の妹へ視線を送り、内心で深く溜め息を吐いた。

 視線の先では、妹のイザベラがボロボロと大粒の涙を零し、震えながら謝罪の言葉を繰り返している。

 いつもなら艶をもってふんわりと緩くカールするミルクティー色の髪も今は乱れ、涙で濡れる頬に張り付く様はまるで雨に濡れた野兎のようだった。


「……お父様」

「何だ、ウルスラ」

「あまり大きな声はお身体に障ります」

「だが!」

「お父様」


 じっと父を見詰めれば、父、アッシュフィールド伯爵マクシミリアンは、荒々しく息を吐いて向かいのソファに腰を降ろした。

 部屋には父である伯爵とウルスラ、そして妹のイザベラがいる。母はあまりの事にしばらく寝込んでしまって部屋から出てこない。

 使用人も全て人払いをして完全に家族のみのプライベートな空間となったそこは、ウルスラにとって息苦しい事この上なかった。

 あまりに父が怒鳴るので、酸素が薄くなった気さえする。


「妹のお前が姉の婚約者の子を孕むなど、アッシュフィールド始まって以来の醜聞だ! 恥を知れ、この愚か者めが」

「ご、ごめんなさい。ごめんなさいお父様……!」


 ブルブルと震える妹の顔色はひどく悪い。

 身籠っている身でこの叱責はさぞストレスになるだろう。

 せめてここにその当事者の片割れである己の婚約者、アランがいればもう少しマシだっただろうに、彼はこの件が発覚してから謹慎を言い渡されており、部屋から出る事を許されてはいなかった。


(悪いのは、何もイザベラとアラン様だけではないわ)


 心の中でそう呟いて、ウルスラはどう切り出したものかと思案した。

 幸い自分はいついかなる時も表情が動かない。

 マクシミリアンはきっとウルスラが次に何を言おうとしているのか推測すら出来ていない事だろう。

 烈火の如く怒り続ける父を前に、ウルスラはまず最初に口にすべき言葉を選び始めた。




 ──ウルスラはアッシュフィールド伯爵家の長女である。

 アッシュフィールド伯爵家は王家より女伯爵位を許された特殊な家門であったので、女でも問題なく家督を継げる。

 故に第一子として生を受けたウルスラは、幼少の頃より次期当主となるべく、そして当主の座に相応しい品格を得るべく教育されていた。

 とはいえ幼少の頃から息をするように少しずつ身に付けてきたものだから、部屋に閉じ込められて何時間も厳しい授業を受けるというような事は一切なく、教育の為の時間が終われば妹と共にボート遊びをしたり乗馬に興じたりと、伯爵家の領地でむしろ伸び伸びと過ごしてきた。


 そんなウルスラには他の令嬢とは違う、ある特徴があった。

 どんな時も表情が動かないのだ。

 笑う事もなければ怒る事も泣く事もない。

 それは彼女が幼い頃からの事であったのだが、ウルスラは色んな事情からそれまで他家のお茶会にも出席した事がなかったので、己の特異さを自覚する事がなかった。

 そんな彼女は初めてのお披露目となるデビュタントのパーティーで大いに人目を集め、そして気が付いた時には『氷の令嬢』と呼ばれるようになっていた。

 ウルスラ自身、貴族社会において笑ってみせないといけない場面があるのは理解しており、以前は鏡の前で笑う練習というのもした事がある。

 だが、妹の可憐な笑顔をお手本に笑顔を作ろうとしてもなかなかうまくいかなかった。

 何度練習しても、顔の一部が引き攣るようにほんの少し動くだけのそれは決して笑顔とは言えなかったし、令嬢として他人に見せられる顔でもなかった。

 そして、無様な顔を見せるよりは良いと考えたウルスラは、相手に表情を読ませない事もまた貴族に必要な技能だと開き直っていつも通りの無表情を貫くことにした。

 その無表情と生来の淡々とした口調で誤解されやすかったが、そもそもウルスラはあまり細かい事を気にする性格ではなかった。

 伯爵令嬢、ゆくゆくは女伯爵として婿を取り、家門を支えるという使命の為に貴族然とした考え方は身に付けたものの、正直面倒くさいと思っている部分も多くある。

 その一つが、今まさに目の前で展開されている光景だった。


 ──事の始まりは、ウルスラの婚約者でありアッシュフィールド家に婿に入るはずのミシェリア子爵家の次男アランと、ウルスラの実の妹であるイザベラが通じ子を成した事だった。

 ウルスラは事実上、妹に婚約者を寝取られた伯爵令嬢となったのだ。

 こんな醜聞、ここ最近の社交界でも聞いた事がない。

 浮気相手も外に女を作るならばまだしも血の繋がった妹だ。これには父も相当頭を悩ませている事だろう。

 だがウルスラはこれを『成るべくして成った』と考えていた。

 何故なら、ウルスラは婚約者のアランとイザベラが初めて顔を合わせた瞬間、二人が確実に恋に落ちたと確信していたからだ。


(まさか子まで出来るとは思わなかったけれど……)


 いつかはイザベラも結婚して家を出る身であるのだし、抱えた恋心も一時の気の迷いと胸に秘めたまま終わるだろうとウルスラは楽観視してしまったのだ。

 まさか妹にこんな情熱的な一面があるとは思わなかった。


(でも、イザベラはいつだって文句ひとつも我が儘ひとつも言わない子だったわね)


 イザベラは次女として皆に可愛がられてはいたが、次期当主として育てられているウルスラとは与えられるものがかなり違った。

 本も、ドレスも、何もかも、長女のウルスラはイザベラより多くを与えられ、イザベラはそれを当然の事して受け止めて一度たりともウルスラの持ち物を羨ましがったりはしなかった。

 もしかしたら羨ましく思っていたかもしれないが、それを表情や口に出す事はなかった。

 その点は彼女も立派な伯爵令嬢であると言えるだろう。

 イザベラはアッシュフィールド家での己の立ち位置を理解し、いつだって弁えてきた事をウルスラは知っている。

 そもそも、無表情ゆえに社交界をあまり得意としないウルスラを一番支えてくれたのは、父でも母でもなく妹であるイザベラだ。

 今はこんなややこしい事になってはいるものの、ウルスラとイザベラは非常に仲の良い姉妹であった。


(当主教育を受けはしなかったけれど、実際にイザベラは賢いし伯爵令嬢としての教養もある。次期当主としての素養は充分に持ち合わせているわ)


 あとは、己が一押しすればいい。

 ウルスラはこの無益な時間を終わらせるべく、ソファに座りながら居住まいを正し、父上、と静かに口を開いた。


「──何も問題はございませんわ」

「今度はお前まで何を言い出す」

「ですから、何も問題はございませんと申し上げました。アッシュフィールド伯爵家はイザベラが継げば良いのです」

「な……っ! 何を仰るの、お姉様!」


 淡々と告げるウルスラに、驚愕したイザベラが半ば叫ぶように言う。

 泣き過ぎて真っ赤に腫れた目でこちらを見詰めるイザベラを、ウルスラはじっと見詰め返した。


「お前が跡を継ぎなさい、と言いました。幸い時間はまだあります。私が教育を担当しましょう」

「私はお姉様のようにはなれないわ! 無理よ!」

「ではお腹の子はどうなるのです。子供を連れて修道院にでも入るつもりですか。それよりも、その子をアッシュフィールド家の正当な後継者として立派に育て上げる覚悟をなさい」


 そこまで言うと、さすがに伯爵もウルスラの言葉の意味に気が付いたらしく、唸るように呟いた。


「……アランの婚約者を、イザベラに変更するという事か」

「さようでございます。私とアラン様の婚約は政略結婚の為のものです。今から全て破談するのではリスクが大き過ぎる。それに、婚約破棄や離婚の場合、貴族院に莫大な手続き費用を支払う必要がございますが、やむを得ない理由の婚約者変更であれば費用はそこまでかかりません。幸い私とアラン様は婚約式は済ませましたが、それだけです。イザベラに子供が出来たというのは、当家の場合、男児であれ女児であれ後継となる人間が出来たという事ですから大きな理由となり得ましょう。アッシュフィールド家の直系であるイザベラでしたら血統にも問題はありませんでしょう」


 倫理的な問題はあるかもしれないが、貴族間のあれこれの中で倫理観が端に追いやられるのはよくある事だ。

 ウルスラに一気に捲し立てられ、マクシミリアンはしばらくもごもごと口の中で何か呟いていたが、少し考えると言ってその場を去っていった。


「……お姉様、本気なの……?」

「私が冗談を言える性格でない事はイザベラが一番よく知っているでしょう」

「それは、そうだけれど。でも、私は許されない事をしたわ。お姉様だって私を許せないはずよ。だから……」


 父が去り静まり返った部屋の中、再び涙を溢れさせた妹の目尻をハンカチで拭ってやりながら、ウルスラはそっと囁くように言った。


「……私も悪いのです」

「え?」

「貴族の政略結婚は義務のようなものですが、私はアラン様があなたに惹かれている事を知りながら何も手を打ちませんでした。婚約者として忠告一つしなかったのですから私にも罪はあります。それに、アラン様も私のような無愛想な女よりも、あなたのように表情豊かで愛らしい女性を妻に迎える事を喜ばれるでしょう」


 アランは家格こそ下だが、最近商売で力を付けてきた子爵家であり、彼の家の持つ商会とその販路はアッシュフィールド家としても強力な武器となるものだった。この婚約が破談になれば両家の損失は計り知れない。

 今のウルスラに出来る事は、実質的な婚約の継続を自ら切り出す事のみであった。

 貴族の政略結婚は家と家のもの。そこに個人は必要ない。

アッシュフィールド家とミシェリア家の婚姻。その事実が成れば良いのだ。

 しかしこれを父が命じれば他家や貴族院から何かとつつかれるに決まっている。

 この提案はウルスラがしたからこそ意味を持つのだ。


「イザベラ。私の可愛いベラ。酷なことを言っているのは解っています。けれど私はこのままアラン様との婚約を破棄し、あなたを遠方の修道院に送るよりも、あなたとアラン様の二人にこの家を守って貰う道を選びたいのです」

「でも、そうしたらお姉様はどうなるの。婚約者が入れ替わるだなんて、社交界で何を言われるかわかったものではないじゃない。私にはそれを受ける理由と責任があるわ。けれど、私のせいでお姉様が他の貴族達から見せ物のように扱われることだけは、絶対に受け入れられない……!」

「良いのよ。どうせ皆すぐに飽きて他の話題に移るのだもの」


 そしてウルスラはそこで言葉を切り、妹の侍女を呼んで今日はもう休むように言いつけた。

 何度もこちらを振り返りながら部屋を出ていくイザベラと彼女に付き添う侍女を見送り、最後に一人その場に残ったウルスラは妹に嘘を吐いた事を胸の中で謝罪した。


(イザベラにはこの屋敷に残るような言い方をしたけれど、事が落ち着いたら私はこの家を出るわ。今後良い縁談も望めないだろう私が居続ける事はきっと良くない結果になる。そうね、領内のどこか田舎の方にある修道院にでも入りましょう。街で教師になるのも悪くはないけれど……子供達はこの無表情を怖がるかしら)


 まさか当事者となったウルスラが特に悲しみを感じていないだとは、この屋敷の誰も思っていないだろう。

 皆、ウルスラを婚約者を奪われた可哀想な令嬢だと信じ込んでいる。きっとこの先もずっとそう思い続けるに違いない。

 妹は己の姿を見る度に罪悪感に駆られ、元婚約者と顔を合わす度にギクシャクとした空気になり、両親はひたすら自分に気を遣い続ける。そんな生活まっぴらごめんだ。


(今までずっとこの家を継ぐ事しか考えていなかったけれど、他の道に進むことを考えると何だか少しワクワクするわ。……とても口には出せないけれど)


 正直なところ、アランは確かに物語に出てくる王子様のような容姿ではあったが、ウルスラは彼を政略結婚相手かつビジネスパートナーとしてのみ認識していたので本当に個人的な思い入れがない。

 しかし今の屋敷内の空気の中で「婚約破棄したからといってどうという事もない」と言ったところで、かえって気を遣われるだけなのは明白である。

 この考えは己の胸の中だけにしまっておこうとウルスラは一人頷いた。

 幸い妹はもう少し説得すれば頷いてくれるだろうし、アランにそもそも選択肢はない。

 あとは父だけだが、伯爵として今後を考えるのならばウルスラの提案を受け入れるのはわかっていた。


(お母様は、また少し混乱なさるかもしれないわね)


 母は元々あまり気が強くなく、少しの事で寝込んでしまう事があった。

 ただ、今回の件についての始末の付け方は誰でもなく当事者たるウルスラが発案者である。

 時間が経てば母の気持ちも落ち着くと信じたい。


「……久しぶりに大量にジャムを作りたい気分だわ」


 誰も見ていないのをいい事に、ウルスラは行儀悪くソファにころんと横たわって呟いた。

 これからやるべき事は山のようにある。でも、今だけは少し休みたい。


(……全てが終わったら、私は何処で何をしているのかしら……)


 そんな事を思いながら、ウルスラはしばらくの間、豪奢な細工の施されたサロンの天井をぼんやりと見つめ続ける。

 ここ数日降り続いていた雨はいつの間にか止んでおり、窓から見える空の端から薄らと夕陽が差し込んでいた。


 ──こうして、ウルスラは次期当主の座を退き、ただのアッシュフィールド伯爵令嬢となったのだった。


 ウルスラの下した決定が、後に大きな出会いをもたらす事を、この時の彼女は知る由もなかった。

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