8.若奥様の胸の内
その夜、入浴を済ませて部屋着に着替えたベルナールは、久しぶりに夫婦の寝室へと向かっていた。
もしかしたらウルスラはもう寝てしまっているかもしれないかと思っていたのだが、その予想に反して寝室にはまだ明かりがついていた。
ドアを開けた音に気が付いたのか、ベッドに腰掛けたウルスラがヘアブラシ片手にこちらを振り返る。
「旦那様」
「えぇと、一緒に休んでも良いだろうか」
言ってから、自分はなんと間抜けな質問をしたのだろうと、ベルナールは自分で自分が恥ずかしくなった。
別に喧嘩をしている訳ではないのだから夫婦の寝室で休むのは普通の事だ。
だが、先ほど零れた言葉がここ数日の己の態度が言わせた台詞であるのは明白である。
これには流石にウルスラも呆れたに違いない。
そう思ってちらりとウルスラを見ると、彼女は無言でヘアブラシを片付けてベッドに入るところだった。
返事が無いのは今夜は一人で反省しろという事だろうかと項垂れたベルナールだったが、ウルスラがどうぞと無言で自分の隣を叩いてみせたのでようやく安心してベッドに上がる事が出来たのである。
「旦那様」
「な、何だろうか」
いつもなら寝室では名前で呼んでくれるというのに、ウルスラは呼び方を変える事なく、ベッドに横たわったままじとりとベルナールを見詰め、そのまま淡々とした口調で言った。
「あちらの壁側を向いていて頂けますか」
壁側を指差して告げられたその一言にベルナールは大変衝撃を受けた。
壁側を向けというのは、つまり、ウルスラに背を向けて寝る事になる。
実はそれほどまでに怒っていたのかとベルナールはぎくしゃくとした動きで頷き、言われるまま壁の方を向いてベッドに横たわった。
(まさか壁を見つめながら寝る事になろうとは……。いや、しかしこれも自分の行いの結果で……、うん?)
遠い領地から嫁いできてくれたウルスラを早々に一人にしてしまったのは事実である。
これが罰だというのなら彼女が許してくれるまで幾らでも受け止めようと、修道士のような顔で目を閉じたベルナールは、ふと背中に感じた温もりに思わず目を見開いた。
「ウルスラ……?」
「こちらを向いてはなりません」
振り返ろうとするベルナールにウルスラがぴしゃりと釘を刺す。
けれども背中には緩く夜着を握る感触が確かにある。
それどころか、ウルスラはベルナールの背中に甘えるようにぴとりと額を押し当てている。
ベルナールは必死に胸中を落ち着かせながら問うた。
「君は今何を……?」
「久しぶりの旦那様の背中と再会の喜びを交わしております。表側は大人しく壁を見ていて下さいまし」
「そんな……! やはり君、怒って……」
「まさか。怒ってなどおりません」
声音は変わらないが、夜着を握る力が強くなったのを感じてベルナールは思わず口を噤んだ。
「怒っているというのなら、自分自身に対してです。私が躊躇したばかりに……」
そして続けて言われたウルスラの言葉に、はてと横たわったまま首を傾げた。
ウルスラの伯爵夫人としての働きぶりは完璧である。そんな彼女が何を躊躇したというのか。
そんなベルナールの疑問を知ってか知らずか、ウルスラはベルナールの背中に額を押し当てたまま呟いた。
「結婚式の日に、アンジェレッタお義母様から言われていたのです。旦那様はなまじ体力がある分、無理を無理と思わず押し通すところがあると。だから……」
「だから?」
今聞いただけでもかなり痛いところを突かれた気がするのだが、母はウルスラに一体何を言ったのか。
ごくりと息を呑んでベルナールは言葉の続きを待った。
「そういう時は妻として遠慮なく、横面引っ叩いてでも休ませるように、と」
「母上……」
ものすごく母の言いそうな言葉だとベルナールは額に手を当てて脱力した。
そして結局その言葉通りになっている事について、いつまで経っても母には勝てないなと項垂れた。
その間もウルスラは溜め息を吐いて言葉を続ける。
「私、練習はしたのです。素振りですけれど。でも旦那様を叩くだなんて事はやはり出来なくて……。せめてもっと早くお声掛けして、ご無理をなさらないようにすべきでしたのに……」
これでは妻失格だと言うウルスラに、ベルナールはむしろこれ以上の妻がいるだろうかと心の底から思った。
ベルナールの言葉を尊重し、自分から言い出すまではとじっと待ち、それでも無理が祟りそうになれば自ら厨房に立ってまでせめて食事と休憩をと諫めに入る。それは誰にでも出来る事ではない。少なくともごく普通の伯爵家のご夫人方には思いもよらぬ行動だろう。
ベルナールは改めてウルスラの献身に心を打たれ、壁側を向いたまま両手で顔を覆って大きく息を吐いた。
「ウルスラ」
「はい」
「私の背中との再会を喜んでいるところ申し訳ないが、表側も十分反省したのでそろそろ表側にも君と触れ合う許しを貰えないだろうか」
「……本当に反省なさいましたか」
「したとも」
「今後、お仕事が忙しくても、連日お食事を抜くような事はなさらないで頂けますか」
「もちろんだ。約束する」
数秒の沈黙の後、どうぞ、と小さな声でウルスラが答えて夜着から指を離した瞬間、ベルナールは身体を反転させてそのままぎゅうとウルスラを抱き締めた。
柔らかくて、華奢なウルスラの身体がベルナールの腕の中でびくりと緊張したように強張る。
「本当にすまなかった」
ウルスラを抱き締めたまま反省と謝罪を込めた言葉を述べると、ウルスラはおずおずとベルナールの背に腕を回し、騎士を辞めても未だ逞しいその胸に頭を預けて言った。
「……同じ屋敷にいるのに別の寝室で寝るだなんて、もうなさらないで」
「しかし、寝ている君を起こしてしまうのも……」
「構いません。一人で寝る方がよっぽど……寂しく思います」
ちらとウルスラを見ると、耳だけでなく頸まで真っ赤に染まっていた。
出会った当初からウルスラはいつだって淑女の見本のように凛としていて、結婚してからも伯爵夫人としての立場があるからと、ウルスラは寝室以外でベルナールの名を呼ばなくなっていたくらいだ。
そんなウルスラから、口調は変わらずともどこか拗ねた物言いをされる日が来ようとは。
ベルナールが妻の新たな一面を目にした感動に打ち震えていると、ウルスラはついとベルナールを見上げ、そしてすぐに視線を逸らして珍しくもごもごと歯切れ悪く呟いた。
「……ここ数日、おはようのキスもおやすみのキスもありませんでした」
婚約時代、ウルスラの生家であるアッシュフィールド邸に数日滞在したベルナールは、あまりに男性耐性が低いウルスラを心配したウルスラの母ディアーナに言われ、結婚式の予行練習という名目でおはようとおやすみのキスを習慣化していた。
二人のその習慣は結婚してからも変わらなかったが、ここ数日は顔を合わせていなかった為、それも中断されていたのである。
まさか、彼女はあの習慣を自分が思っているよりもずっと大切に思っていてくれたのかもしれない。
そう思うとベルナールはどうにも胸が締め付けられる思いがして、気が付いた時には腕の中のウルスラのまろい額に口付けていた。
「わかった。その分を今から取り戻そう」
「え? あの、旦那様、何を……」
「数日分だと口付けは何回になるだろうか。いや、回数は関係ないか」
「旦……、ベルナール様、お待ち下さい。今のは私のただの我が儘で」
「我が儘なものか。約束を破ってしまったのは私なのだから、十分に償わせてほしい」
「いえ、ですから、少し待っ……!」
翌朝、いつもなら早くに起きて来るはずの伯爵夫人が一向に姿を現さず、代わりに上機嫌の伯爵が彼女の為の朝食を手ずから寝室に運ぶ様子を見て、給仕やウルスラの部屋付き使用人達は、そういえばこの夫妻は新婚であったなと思い出したのである。
「……結局、仲睦まじいんだか何だかわからないわよねぇ」
「本当ねぇ」
厨房の一角で野菜の皮剥きをこなしながら、他の使用人よりも一足早くウルスラへの認識を改めていたキッチンメイド達はそんな事を話していた。
「でも、好きでも何でもない男の為にあんなに真面目に料理なんて、普通出来ないわよねぇ」
「そうよねぇ」
貴族なんてあれが食べたいと言えば厨房の料理人が拵えるのだから、わざわざ自分で厨房に立つだなんて事は普通しないのだ。
しかしあの奥様は食事を抜きがちな夫の為にと、自分で食材とメニューを選び、自分で作って持って行った。
料理に携わる使用人達には、それが全ての答えであるように思えたのだ。
だからこそ、他の使用人達にも夫妻についてもう少し知って貰う機会があれば、と切に願うのだった。