7.小さな一歩
「──この庭園も随分と様子が変わったな」
「もう夏になりますもの」
緑の濃くなった庭園に吹き抜ける風は、確かに夏の気配がした。
自分が思っているよりもずっと日が長くなっているし、本当なら二人で見るはずだった薔薇はすっかり盛りを過ぎてしまっていた。
仕事に追われていたといっても自分ではそこまでではないと思っていたベルナールは、そんな変化の一つ一つに大変なショックを受けて思わずウルスラを見やる。
「何か?」
「……いや」
思い返せば、ここしばらくは仕事ばかりで妻との時間さえ作れていなかった。
伯爵位を継ぎ、初仕事を乗り越えた辺りからかすみがちではあったが、己は結婚したばかりなのだ。
それなのに自分は妻との時間を作りもせず仕事にばかりかまけていたのか。
領地運営は領民の暮らしを守る為に滞らせてはいけない重要なものだ。
しかし、周りの事に何も気を配らず仕事だけをすれば良いというものでもない。
(私はどうして集中すると他の事がこうも疎かになってしまうのか……)
猛烈に反省したベルナールは、これから自分がすべき事を考えた。
考え込むベルナールを見てウルスラが足を止める。
「何かお悩みでも? お仕事でトラブルでもございましたか」
「いや、問題は無……、そうでもないな」
「私でお役に立てる事でしたら何なりとお申し付け下さいね」
じっと自分を見上げる透き通ったヘイゼルの瞳を見つめているうちに、ベルナールはぽつりぽつりと仕事に没頭していてウルスラを寂しくさせていたのではないかという事を話し始めた。
けして悪気があった訳ではないが、このままではいけないのではないか。
しかし当主としての仕事に慣れた訳でもない自分にはまだ良いやり方がわからない。
そういった事を一通り話すと、何だか胸の奥にずしりと重く留まっていたものが幾分か軽くなった気がした。
「旦那様。こちらへ」
ウルスラに促されて庭園に設置してあるベンチに腰を降ろす。
「旦那様。以前にも申し上げましたが、私は旦那様がお仕事に一生懸命である事を知っております。ですから、そのお気持ちだけで今は充分ですわ。でも、そうですね。お仕事にのめり込みすぎるのはお身体にもよろしくないかと……」
寝食を疎かにしてはいずれベルナールは身体を壊してしまうだろう。
その事は本人も理解しているらしく、眉間に皺を寄せてもう少し慣れたらなどとぶつぶつ呟いている。
ウルスラはそんなベルナールの眉間についと人差し指で触れ、眉間に寄った皺をのばすようにゆっくりと撫でていく。
「家令が申しておりました。旦那様がお一人で何でもなさるので、代官達はお役御免になるのではと生きた心地がしないのです、と」
「私が彼らを解雇すると? そんな事はあり得ないが……」
代官達が伯爵家に仕え、領地を支えてくれたからこそ今のレインバード家があるのだ。
彼ら無くして領地運営など出来ようはずもない。
心からそう思っている様子のベルナールに、ウルスラは小さく溜め息を吐いてから呟いた。
「そうお思いならば、もう少し代官に仕事を戻しては?」
「戻す?」
「えぇ、旦那様はこれまで代官が行って来た範囲もご自分でなさっておられるでしょう。もっと周りを頼りにして仕事を振り分けてもよろしいのですよ」
そう諭されたベルナールは迷子の子供のような困り顔になって、逆にウルスラに問い掛けた。
「しかし、元々は私の仕事だろう? 私が処理出来るのに、敢えて彼らに仕事を押し付けるような事をして良いのだろうか?」
「押し付けるのではありません。領地運営が円滑に、効率良く行われるように仕事を配分し代官に任せるのです」
そもそもこの広大な領地をエリア毎に分割して代官が治めているのもそれが理由である。
ベルナールの真面目さが裏目に出てしまったのだなと思いながらウルスラは続けた。
「お義父様も、全く同じやり方で無くとも構わないと仰っておりましたでしょう。旦那様の譲れないところはご自分で処理し、代官に回せるところは回していけばよろしいかと」
「譲れないところ、か」
ベルナールはふむと少し考えてから、そうだなと呟く。
「私はどうにも自分の目で確かめたいと思うところが多いらしい。だから何でも自分でやりたくなるのだと思う」
「さようで」
「しかし、私よりも代官達の方がよほど経験があるのだから任せた方が効率的だというのも解る。父上もそうしていた訳だしな」
ベルナールの父アルマンは領内の治水工事に特に力を入れており、その他の代官に任せられる仕事はそれなりに任せていたと聞く。
弟のセレスタンが父の代理として領地運営に携わる際は、彼は計算が得意であったので各種計算は自分でやっていたようだ。
それらを踏まえ、ベルナールは庭園のベンチに深く腰掛けたまま、改めて自分の譲れないところはどこかという事を考える。
そして。
「あぁ、そうか」
何かを思い付いたのか、パッと顔を上げた。
「仕事を任せるのはいいが、任せきりというのが性に合わないのだな」
今までは自分で全てやらなければと思っていた事だが、ウルスラの助言をもとに言語化してみると何だか根は単純な問題に思えてきて、ベルナールは自分が思った以上に仕事に振り回されていたようだと実感する。
「それでは報告書の提出回数を増やしてみるのはいかがですか」
「それは代官の手間を増やすだけだから、それには及ばない。私が実際に現地を目で見て確かめれば良い」
「つまり、視察の回数を増やすのですね」
「あぁ、出来れば抜き打ちで行うのが好ましい。お膳立てされた視察など意味が無い」
仕事を任せた後、その仕事が十全に行われているかは自らの目で確認したい。
そう最終的に自分の望むところを導き出したベルナールは後程改めて家令と仕事の振り分けについて話をする必要があるなと考えたが、すぐに頭を振って、それは明日に回す事に決めた。
「……私はまだ領地の事を深く知らない。代官達とも顔を合わせた事はあるが、まだまだ彼らをよく知るには至っていない。だから私は直に彼らに会い、領地の現状を知らなければいけないと思う」
それはこの領地に暮らす人々が安心して生活出来るように、自分が何をすべきなのかを見定める為に必要な事だ。
そうベルナールが言うと、ウルスラも頷いて賛同を示した。
「私も微力ながらお支え致します」
「ありがとう。そうだな。手始めに西の果樹園辺りに視察に行きたいと思うんだが、せっかくだから君もどうかな」
「もうすぐ収穫時期ですし、ちょうど良い頃合いですわね。勿論ご一緒致します」
西の果樹園ではここ数年で新しく栽培を始めた果物がそろそろ収穫時期を迎える頃だ。
季節も良いし、場所も遠くないから遠乗りがてら様子を見に行くのも良いだろう。
ベンチから立ち上がったベルナールがウルスラに手を差し出し、ウルスラもその手を取って立ち上がる。
「今にして思えば、もっと早く君とこうして話をするべきだったな」
「でしたら、今後はもっと会話の時間をとる事に致しましょう」
「そうしよう」
初夏の香りが風に混じる穏やかな夕暮れの庭園を、二人は静かに会話を楽しみながら進んでいく。
ゆっくりと庭園を一周した頃、屋敷へと続く道に侍女と家令が並び立ち、伯爵夫妻に恭しく頭を下げた。
どうやら晩餐の支度が調ったらしい。
「旦那様、それではまた後程」
「あぁ、部屋まで迎えに行こう」
「有り難う存じます」
しばらくぶりの夫婦が揃う晩餐である。
二人は晩餐用の着替えのため、短い会話を交わしてそれぞれの部屋へと戻っていく。
──その晩、レインバード邸の晩餐のテーブルには、ウルスラの出身地である西部地域の料理や東部地域のお祝いの料理まで、まるで新年か誰かの誕生日でも祝うかのような豪勢な料理が幾つも並び、夫妻は料理長の気合いの入れように驚きつつも喜んでゆっくりと食事を楽しんだ。
しかし、ベルナールがいかに健啖家であるとはいえ、二人の胃袋だけでは到底食べ切ることが出来ない量であったので(そもそも貴族の食事とは人数に対して用意される量が多すぎるのである)、その晩はベルナールが許可を出し、特別に使用人達を食堂に招いて日頃の働きを労う場とした。
最終的に料理は一皿も無駄になる事なく、全て綺麗にそれぞれの胃におさまった。
そして厨房の使用人達は、ベルナールの為にと厨房にまで立った伯爵夫人ウルスラへの認識を「笑わないけれど怖い方ではないかもしれない」と、ほんの少しだけ改めたのだった。