6.本当の贅沢
翌朝。
ウルスラはいつもよりもずっと早くに起き出し、侍女が昨夜の内に選んでおいてくれた手持ちの中でも動きやすくシンプルなドレスに着替えて厨房へと降りた。
ドレスの上にこれまた侍女が用意してくれたレインバード家の使用人用のお仕着せであるエプロンをつけ、まずは調理台の上に指定した食材が揃っている事を確認する。
新鮮な野菜と小麦粉が数種。肉類は調理担当が必要な大きさにカットや加工を始めている。
全てが不足なく揃っている事を確認して厨房設備へと目をやれば、既に竈には火が入れられており、湯もたっぷりと沸かされていた。
使用人達の行き届いた仕事に、ウルスラは無表情ながら満足気によろしいと頷いて、指示を待って控えていた料理長へと視線を向けた。
「──それでは、始めましょう」
その言葉を合図に、明け方の厨房は目覚めた小鳥が飛び立つように、一斉に動き出すのだった。
その日のレインバード伯爵邸での朝食には、食べやすい大きさのミートパイとマッシュポテト、それからカリカリに焼いたベーコンという、およそ伯爵家の朝食と思えないメニューがどんと大皿に盛られて乗っていた。
伯爵家らしい点といえば、新鮮なフルーツが添えられていた事だろうか。
ベルナールはテーブルの上の料理を見て、わかりやすく目を輝かせた。
「こういうのは久しぶりに食べるな」
「……以前にお話を伺っておりましたので、なるべく寄せてみたのです」
騎士団宿舎での食事を模したそれは、自分の皿に自分が食べるだけを盛るスタイルである。
ベルナールも給仕に命ずる事なく、己の手で目の前に置かれた皿に好きなだけ料理を盛って食べ始めた。
当然このような食事の仕方も格式高いレインバード伯爵家では初めての事である。
給仕役の使用人達は理解しつつもどこかソワソワと落ち着かない気持ちになって、所在なさ気に夫妻の食事の様子を窺っている。
「お食事に合うよう、料理長がライ麦パンも拵えてくれました」
「あぁ、これは美味いな。チーズによく合いそうだ。今度このパンでサンドイッチを作ってほしいものだ」
「かしこまりました」
「……君が作ってくれるのかい?」
「えぇ、実家ではピクニックの際によく作ったものです。どうぞお任せ下さい」
「それは楽しみだな」
そんな些細な会話の一つ一つまでが楽しく、贅を凝らしたものを食べている訳でもないのにベルナールには今日の朝食がとても贅沢なものに感じた。
満ち足りていると言い換えても良い。
ここしばらくは、おざなりにスープかサラダを摘む程度に食べて終わるだけの朝食だったのだから、当然といえば当然である。
こうして妻と言葉を交わし、共に食事を楽しむ。
当たり前の日常にこそ本当の贅沢というものはあるらしいと、ベルナールはミートパイのサクサクのパイ生地を堪能しつつ思うのだった。
「料理長が晩餐は特別なものをと張り切ってくれておりますから、昼食はごく軽めのものをご用意致します」
「昼のメニューは何を?」
「それは楽しみになさっていて下さい」
朝食後、ウルスラに見送られて執務室へと向かったベルナールは、すっかりやる気になってよしと気合を入れて書類に向き合う。
もし厨房にいた使用人がその様子を見ることが出来たのなら、気合を入れるその仕草がウルスラとよく似ていた事に気が付いただろう。
けれど彼らは執務室に立ち入る事など許されず、それ故にそういった夫婦の親密さもまた知られる事はなかった。
朝食に続いて昼食(昼食はキッシュと野菜がたっぷり入ったスープだった)もしっかりと済ませて、適度に休憩をとったおかげでその後の仕事も順調に進み、ベルナールは予定よりも大分早く仕事に目処をつける事が出来た。
全ての業務を終えるにはまだ数日掛かりそうだが、今は至急の案件がある訳でもないのだから多少時間がかかっても構わないだろう。
幾つかの書類にサインをした後、ペンを置いてベルナールは控えていた家令に尋ねる。
「……ウルスラは今何を?」
「奥様でしたらこの時間はサロンで読書か刺繍をなさっておいでです」
「そうか」
そしてベルナールは残りの仕事をこなしながら窓の外を見て少し考えると、よし、と小さく呟いた。
「──ウルスラ」
サロンの長椅子で寛ぎながら本を読んでいたウルスラは、夫に名を呼ばれて慌てて居住まいを正した。
「旦那様。お仕事は」
「あぁ。全ては終わっていないが、ようやく目処はついたよ」
「それは良うございました。お疲れでしょう? 今お茶を……」
「あぁ、いや、いいんだ。それよりもウルスラ、君にこれを」
「えっ」
言いながら近付いたベルナールの腕が伸ばされ、ウルスラの結い上げた栗色の髪にそっと一輪の花を挿す。
「ラベンダー?」
花の香りで気付いたのか、ウルスラが呟けばベルナールが満足そうに頷いた。
「君のポプリ用との事だったが、庭師に頼み込んで一輪貰ったんだ。君にはもっと淡い色が似合うと思っていたけれど、これもよく似合う。……ところで、晩餐まで時間もあることだし、久しぶりに散歩などどうだろう」
「はい。喜んで」
いつも通り、にこりと笑いもせず淡々とした言葉と表情で首肯を返したウルスラは、ベルナールに差し出された手を取って長椅子から立ち上がる。
いつもと何ら変わらぬように見える彼女の耳がほんのりと赤く染まっているのに気付いて、ベルナールは思わず口許を綻ばせた。
表情こそ変わらないが、ウルスラは実に感情豊かである。多くの人間が気付いていないその事実を知っているという、小さな優越感だった。
「旦那様……?」
「いや、何でもない。それでは行こうか」
不思議そうに首を傾げてこちらを見上げたウルスラに、ベルナールは小さく咳払いをして真面目な顔を取り繕うと庭園までのエスコートを開始した。




