5.夫の決意
「まだ仕事は残っているが、久しぶりに安らいだ気分だ」
「それはよろしゅうございました」
食事を終えてしみじみと呟くベルナールの向かいで、ウルスラは優雅な所作で紅茶を口許へと運んでいる。
そして音の一つも立てずにテーブルのソーサーにカップを戻してから姿勢を正した。
「旦那様。私は旦那様が一日二日食事を抜いても差し支えない程、騎士団で鍛えられた事は存じております。ですが、それは騎士として有事に備える訓練であって、領地経営の為の執務を行う為の訓練ではございません」
そこから続けられるのは間違いなく説教だった。
淡々としたウルスラの説教は学生時代苦手だった教師の授業を思い出させ、ベルナールは思わずしゅんと項垂れる。
「す、すまない……」
「……旦那様が慣れないお仕事に奮闘してらっしゃる事は私も存じております。それでも旦那様には健やかであってほしいのです」
しかし、ウルスラの言葉はいつも通りの淡々とした抑揚のないものであるが、そこには確かにベルナールへの心配が滲んでいた。
「ウルスラ……、その、ありがとう」
「妻として当然の事です。明日もお仕事で屋敷におられる予定でしたね。明日のお食事も今回のように簡単に食べられるものをご用意致します」
ウルスラが空になった食器を侍女らに下げさせてそう告げる。
やはり淡々とした声音であったが、ほんの少しだけ口調が早くなっていて、見ればほんのりと耳が赤く染まっている。どうやら照れているようだ。
その事に気付いて柔らかく目を細めたベルナールは、少し考えてから夕食は食堂でとると答えた。
「明日の夜までには仕事に区切りをつける。晩餐はゆっくりと二人で過ごそう」
そしてベルナールは、だから、と続けた。
「朝と……昼食はまた君に頼めるかい。これ、君の手作りだろう」
その言葉にウルスラは珍しく僅かに目を見開いた。
「お気づきだったのですか」
「結婚する前、アッシュフィールド邸に滞在した時に君が振る舞ってくれたのと同じ味のソースだったからね。私が君お手製のハニーマスタードソースの味を間違えるだなんてあるものか」
「さようで」
まだ執務が残っているベルナールに配慮してそこで会話を切り、ウルスラがまた明日と挨拶をして執務室を辞する。
ベルナールと家令だけが残った執務室は、急にしんと静まり返ったように感じた。
ウルスラの背中を追うようにして、既に閉ざされたドアを見つめる主人に、家令は穏やかな眼差しで呟いた。
「……本当に良いお方をお迎えになりましたな」
「あぁ。正直、私などには勿体ないくらいだ」
「何を仰います」
「だってそうだろう? 怪我で騎士団を引退し、半ば成り行きで父の跡を継いだ私と、幼い頃より後継者として日々励んでいた彼女とでは……あんな事さえなければ顔を合わせる事もなかっただろう。彼女にとっては災難だったろうが、私にとっては最大の幸運となったのが何とも皮肉だな」
ベルナールの言うところの『あんな事』というのは、令嬢時代のウルスラの婚約破棄の事だ。
彼女は自分の生家の為に一番損のない方法を選ぶ為に自らの婚約破棄を選んだ。
そのお陰で自分はウルスラと結婚出来たのだが、彼女の有能さを考えるとウルスラは自分などより余程伯爵位に向いている気がしていた。
初めてウルスラの生家であるアッシュフィールド邸で顔を合わせた時の事を思い出し、ベルナールはひどく複雑な思いで溜め息を吐いた。
「それもまた運命というものでございましょう」
家令はそう言ったが、ベルナールはくしゃりと癖のある黒髪をかきまぜて目を伏せる。
「しかし、私が未熟なばかりに彼女にはいつも迷惑や心配ばかり掛けてしまうのが実に情けない」
「でしたら経験を重ねて立派な伯爵となられる事ですな。なに、アルマン様とて最初から全て上手く出来た訳ではございません。焦る事はございませんよ」
家令からして見ればウルスラはベルナールの事を憎からず思っており、先程のウルスラの行動も夫への愛情故の心配であったように思えたのだが、当のベルナールは胸の内に抱えた引け目からなのかあまり伝わっていないようだった。
苦笑を堪えて家令が重ねて言うと、ベルナールもようやく気を取り直したように頷いた。
剣の道とて一朝一夕にはいかないものだとベルナールは知っている。
立派な伯爵となるにもまた、色んな経験を重ねていく事が一番の修練なのだろう。
「そうだな。一日も早く彼女の夫として胸を張れるよう努めねば。手始めに手元の仕事を終わらせるとしよう。一番大きな案件は既に片付けたから、あとは細かな残務処理ばかりだと思うが……」
「さようでございますね。ではこちらの書類を一度整理致しましょう」
決意に燃えるベルナールが執務をこなす一方で、ウルスラは自室に戻る前に厨房へと寄っていた。
急に通常の業務外の事をやらせた事について、改めて詫びと礼を伝えなければならないし、明日の食事についても指示を幾つか出しておく必要がある。
待ち構えていた使用人達に、ウルスラがまずベルナールが食事を平らげた事を告げると、夜の厨房はわっと沸いた。
それを見たウルスラは夫が使用人達にとても慕われているのを感じ、胸が温かくなるのを感じた。
使用人の雇用や配置は全てウルスラの仕事ではあるが、屋敷の主人はあくまでもベルナールである。
使用人達が主人の為にこれほど日々尽くしてくれるのは、ただ賃金のためだけでなく、彼が、そして彼の一族たるレインバード家が尊敬に値する人間である事を示していた。妻としてこれは喜ばしい事である。
続いてウルスラは先程の軽食の用意について使用人達の手を煩わせた事を謝り、急な対応を引き受けてくれた事について心からの感謝を述べた。
「料理長、明日の食事ですが……」
料理長にベルナールの明日の朝食と昼食は自分が用意する旨を伝え、必要な材料を用意しておくように申し付けると、料理長はおずおずと口を開いた。
「奥様、メニューさえご指示頂ければ私共でご用意致しますが……」
「いいえ、それには及びません」
恐縮した様子の料理長の申し出に否を返し、だが彼の職務領分を侵す事についてはしっかり謝罪して、ウルスラはピンと背筋を伸ばして堂々と言った。
「私は料理に慣れています。その事は旦那様もご存知です」
「はぁ……」
確かにロールサンドやソースを作る手に迷いは無かった。あれは貴族令嬢のおままごとのようなお菓子作りなどではなく、実際に厨房を知る者の動きだった。けれども上位貴族であるはずの貴族夫人が自ら厨房に立つ事などあるのだろうか?
料理長はウルスラの言葉に戸惑いつつも頷いて、明日の食材を準備する事を了承した。
計画外の料理ではあるが、この程度レインバードの食料庫は痛くも痒くもない。
貯蔵庫の内容を確認し、今後数日間の食事内容は見直す必要があるかもしれないが、料理長にはそんな事よりももっとずっと気になる事があった。
「奥様。一つお伺いしてもよろしいでしょうか」
「何です?」
「あの、先程ローストチキンに掛けていたソースは、何というソースなのでしょうか」
東部ではあまり見ないソースは料理長の興味をひどく刺激した。
ポタージュを作るという仕事があったのでウルスラの手元をずっと見ている訳にいかず、あれは何を使ったソースだったのかとひどく悶々とした思いを抱えていたのだった。
「あぁ、あれは西部地域ではごく一般的なハニーマスタードソースです。私の実家のレシピですが、よろしければ教えましょうか」
家ごとに微妙に異なるアレンジを加えたソースは、似ているようで全く違う味になる。
つまりそれは『アッシュフィールド家のハニーマスタードソース』であり、本来なら一生知る事の出来ないレシピだ。料理長は一も二もなく頷いた。
彼の料理への探究心に感心しながら、ウルスラは後日レシピを書面にして彼に渡す事を約束した。彼ならきっと上手く使ってくれる事だろう。
そうして全ての用事と準備を済ませてようやく自室に戻った彼女は、お疲れ様でございますという労りの言葉と共に侍女が用意した紅茶を飲み、やっと一息つく事が出来たのだった。