4.妻の務め
「……旦那様。ウルスラでございます」
ベルナールの執務室をウルスラが訪れたのは、晩餐終了から三十分ほど経ってからだった。
ウルスラは夫の執務の邪魔になる事を嫌って、この場所へは必要以上に寄り付かないようにしている。
裏返せば、必要があるから訪れた事になる。
ベルナールもそれを理解していたようで、一瞬戸惑った気配はあったものの、中からはすぐに入室許可を告げる声が聞こえた。
「ウルスラ? どうしたんだ。晩餐……は、もう終わっているか。いつもなら休んでいる時間だろう」
「妻の務めを果たしに参りました」
「妻の、務め……?」
レインバード伯爵家の現当主であり、ウルスラの夫であるベルナール・レインバードは、ぱちりと一度目を瞬かせ、そして己の問い掛けに対して開口一番告げられた妻の言葉に困惑の表情を浮かべた。
妻の務めとは一体何だったか。
社交界で貴族同士の交流をすること、屋敷の切り盛り、慈善活動、それから夜の営みによって後継ぎを設けること。
時間的には夜の営みしか当てはまらないが、後継ぎに関しては妻だけではなく夫の己にも責任があるし、そもそもそれは執務室でする話には到底思えなかった。貞淑なウルスラであれば尚の事である。
それらを数秒の内に脳内で処理し、連日の執務で疲れた顔をしたベルナールは、へにょりと困ったように眉尻を下げた。
「一体どうしたというんだい」
突然執務室に来て妻の務めとはこれいかに。
この疲労さえなければ、もう少し何か思いつけたのかもしれないが、今のベルナールには難しい。
何をしに来たのかと問う視線に、ウルスラはジッとベルナールを見上げ、ピンと背筋を伸ばして答えた。
「お食事をお持ちしました」
「食事? いや、そんな時間は……」
ウルスラの言葉にベルナールは即座に難色を示す。
だが、そんな夫の表情にも怯む事なく、いや眉一つ動かす事なくウルスラは続けた。
「二十分、いえ十五分で済みます」
「え? だが、夕食だろう?」
ベルナールの困惑はもっともである。
貴族の食事は長い。中でも晩餐は一日の食事の中でも一番贅を尽くし、時間をかけるものだ。
故に、レインバード家の晩餐といえば軽く一時間、デザートと食後のお茶までいれたら最低でも二時間かかるのが普通だった。
その時間があれば何枚の書類に目を通すことが出来るだろうか。
ベルナールの戸惑いなど承知の上とばかりに、ウルスラは淡々と次の言葉を唇に乗せた。
「あまり行儀の良い事ではございませんが、お仕事をしながらでも召し上がれるものをご用意致しました。とは言え、私としては、せめてこちらのテーブルで短時間でも休息をとって頂きたく存じますが」
「そ、そう、か……」
ベルナールはそこで初めてウルスラの後方に控えた侍女が、ワゴンを運んで来ていた事に気が付いた。
そこにはティーポットと一緒に銀色のクローシュで覆われた皿も見える。
ここ数日、飲み物と多少のビスケットで夕食を済ませていたベルナールは、ウルスラと侍女の持って来たワゴン、それから自分の執務机を順に見て少し迷った顔になった。
それはまさしく葛藤といっても差し支えのない表情であったので、ウルスラはちらと執務机脇に控えていた家令へ目配せをして無言で援護を要請する。
「旦那様、少しだけ休憩されてはいかがですか」
先代から仕える家令にもそう勧められ、ベルナールは再び執務机の上の書類へと視線を向けて考える素振りを見せた。
山は越したとはいえ、まだ残りは多く、正直休憩などしている暇はない。
だが、妻が直々に食事を用意したと言って執務室にまで来てくれたのだ。
こんな事は初めてであるし、最近は騎士時代では考えられないような不摂生をしている自覚もある。
「では、十五分だけ……」
そうしてベルナールは、ウルスラに促されるようにして執務室に設置された応接用のテーブルへと移動したのだった。
ソファに腰を降ろし背凭れに身体を預けると、どっと疲労感が押し寄せた気がして思わず喉の奥で唸るような声が出た。
長時間書類と睨めっこをしていたせいで身体も強張ってしまっているし、処理内容は気を遣う事ばかりだから精神的にも疲れている。
ベルナールがそんな事を考えている内に、侍女とウルスラの手によっててきぱきとテーブルの上に食事の支度が調えられていく。
「うん? これは?」
しかし、クローシュを取り去った皿の上に鎮座するものを見て、ベルナールは思わず首を傾げた。
皿の上にあったのはベルナールの知っているどの料理とも異なっていた。
キャンディのように包み紙に包まれた円筒形のものが幾つか積まれているのだ。
困惑するベルナールに代わり、ウルスラがその包みの一つを手にとって片側の端を開く。
「ロールサンドですわ」
「ロールサンド……。サンドイッチか?」
「さようです。パンに挟むのではなく、具をパンで巻いているのです」
包みの中にあるものを見て、なるほどとベルナールは感心した。
薄く切ったパンを筒状に丸め、中には野菜や肉などが入っている。見た目からして実に食べやすそうだ。
しかも包み紙が巻かれているので、指先が汚れる事も、具材が落ちる事を心配する必要もない。ウルスラが言ったように、これなら仕事をしながらでも食べられるだろう。
差し出された包みを受け取り、一口齧る。
(これは……)
ハーブの効いた鶏肉と根菜だろうか、歯応えのある野菜は食べ応えがある。
あっという間に一つ目を平らげ、ベルナールの手は自然と皿の上の包みに伸びていく。
二つ目は最初に食べたものとは具が異なるようだった。しかしこれも実に好みの味である。
ベルナールは食べながら、自分は空腹だったのだなと今更ながらに自覚した。
同時に、これはあまり良くない事なのではないかと薄っすら思い始めた。
脳裏に過るのは騎士団時代の上官の顔だ。あの頃は訓練に没頭し過ぎだと幾度となくお叱りを受けたものだ。かつての上官に今の自分を見られたら、待ったなしでお叱りを受ける事になるだろうなとベルナールは内心で苦笑した。
「今夜の晩餐は……」
「ん?」
もぐもぐとロールサンドを咀嚼するベルナールを見つめて、ウルスラが唐突に、けれど静かに口を開く。
「料理長が腕によりをかけたローストハーブチキンだったのです。ですから、そちらを具にしております」
「あぁ、好きな味だと思った……」
今夜の晩餐に自分の好物が出たと聞いて、反射的に惜しい事をしたとベルナールは思う。そしてそんな事を思った自分に驚いた。
ここ数日は食事を億劫だとさえ感じていたのに。
「スープはこちらに」
続けてウルスラからティーカップを渡されてベルナールはギョッとした。
スープはスープ皿に入っているものではないのか。
スープ皿にスープ用のスプーンが添えられているのが常であるので、ベルナールは面食らってマジマジと温かなスープで満たされた手の中のカップを見詰めた。
「えぇ。具材のないポタージュでしたら、このようにすれば飲みやすくなりますでしょう」
「確かに。……何だか、騎士団の野営訓練を思い出すな。野営の時は食事のスープはそれぞれ自分のカップで飲んだものだ」
そんな会話をしながら、ベルナールは用意されたロールサンドとスープをすっかり平らげ、ウルスラがデザートにと用意した一口サイズのタルトまで堪能し、食後の紅茶を飲んでほぅと深く息を吐く。
十五分はとうに過ぎていたが、焦る気持ちは不思議と生まれなかった。




