3.厨房の女主人
「失礼します」
丁寧にノックをし、中からの応答を待ってからウルスラは静かにその部屋のドアを開けた。
食堂にいた使用人達の予想に反し、彼女が向かったのは夫の執務室ではなく屋敷の厨房だった。
レインバード伯爵邸の厨房は半地下にある。
大規模な晩餐会にも対応出来る程の規模と施設を備えているそこは、食糧庫からパン捏ね台、食器を保管する為の小部屋に至るまで全て料理長と料理人、そして厨房の仕事を担うキッチンメイド達の領域だ。
ウルスラは彼らが自分の仕事場にどれほど誇りを持っているかをきちんと理解している。
故に、メニューの打ち合わせを料理長とする事があっても、それらはいつもウルスラの執務室で行っており、このように彼らの領分たるこの厨房にまでやってくる事は、必要な確認を除いてごく稀であった。
「奥様、どうかなさいましたか。お食事に何か問題がございましたでしょうか」
厨房にいた者達はウルスラの登場に驚きつつ、いつもと様子が違う事を肌で感じた古参料理人の一人がウルスラに対応する為に前に出た。
同じくして、新人の若い使用人が先程食堂に呼び出されたまま帰って来ない料理長を呼び戻す為に階段を駆け上がっていく。
ざわめく厨房でウルスラはピンと背筋を伸ばし、まず突然の訪問を詫びてから食料の貯蔵庫を見せてほしいと頼んだ。
「何か不備でもございましたか」
食料品の発注や保管も当然厳しく取り決めがある。
もし使用人がソーセージの一本でもくすねようものなら、犯人がわかり次第すぐに解雇が言い渡される程だ。
屋敷の女主人たるウルスラが直々に厨房まで降りて来るのだから、もしかしたら銀食器が足りないだとか、そういう事があったのだろうか。
古参の料理人が緊張した面持ちで重ねて問い掛けると、ウルスラは静かに否を返した。
「料理長の指示のもと、皆素晴らしい働きぶりを見せてくれています。料理の質も、食器の管理も、不備など一つもありません」
「で、では何故貯蔵庫など……」
訳がわからず戸惑うばかりの料理人であったが、そこでようやく料理長が戻ってきた為、彼にその場を譲って静かに下がった。
「奥様、一体どうなすったのですか」
「料理長。私は私の務めを果たさねばなりません。すぐに食糧庫を確認する必要があります」
「それはまたどうして……」
「旦那様にお食事をお持ちする為です」
ウルスラのその言葉に料理長は思わず目を瞬かせ、口の中でたった今聞いたばかりの言葉を何度も反芻した。
食事の用意は既に調っている。
しかしウルスラの言い方では今から作るように聞こえた。作る。──誰が?
「食堂にお食事を用意したとて旦那様は一向にいらっしゃらない。ですから、私が今から軽食を作り、直接差し入れます」
料理長の疑問を表情から察したのか、ウルスラは淡々と説明した。
「料理長。そういう訳ですから、失礼ですが貯蔵庫を確認します」
屋敷の管理を任される女主人であるウルスラが失礼ですがと前置いたのは、そこにある食材はいつ何に使うかを考えた上で料理長が指示して用意させたものであると知っているからだ。
そしてそのまま彼女は料理長を引き連れて食糧庫を確認し、ついでに準備中であった使用人達の為の食事を確認してから深く頷いた。
「素晴らしい。食料品もきちんと管理されていますね。……さて、手の空いている者がいれば誰か手伝いを頼めますか」
「でしたら私めが!」
ウルスラからの要請に一番先に手を挙げたのは、当然ながらこの厨房を預かる料理長だった。
料理帽を被って一歩前に出た彼に、ウルスラは小さく頷いてから指示を出す。
「よろしい。では料理長。今夜の晩餐のメニューに蒸したじゃがいもがありましたね。あれを使ってポタージュを作りますから材料の準備を」
「かしこまりました。あの、奥様。ポタージュは私が作ってもよろしいでしょうか」
「任せましょう」
料理長にポタージュの用意を申し付け、次にウルスラはずっと近くに控えていた先ほどの古参の料理人へと視線を向けた。
「使用人の食事用にティンブレッドを焼いていますね。そこから十二枚分、薄く切って端を落として持って来るように。代わりに旦那様用の白パンを使用人の食事に回しなさい」
「えっ、白パンをですか」
上質な小麦粉を使用して焼く柔らかな白パンは貴族の食べ物だ。
それを使用人に回すなんて、この奥様は一体何を始めるのだろう。
驚く使用人を気にも留めず、ウルスラはいつもの淡々とした調子で無表情に答えた。
「使用人の食事用のパンを頂くのですから、その分足りなくなるでしょう。誰も食べずに硬くなるより、誰かが美味しく食べた方が白パンも本望というものです」
「は、はぁ……。かしこまりました。ティンブレッドの薄さは如何ほどで?」
「サンドイッチと同じ厚さが好ましいですね」
「かしこまりました。すぐご用意致します」
戸惑いは残るが奥様の指示に従うのみだ。
古参の使用人は冷ましてあったティンブレッド(いわゆる食パンである)を型から外し、パン用の包丁で切り分け始める。
そこに遅れて到着した侍女が、自前のものだろうか、恭しくエプロンを差し出した。
「奥様、お待たせ致しました。でも、こんなものしかなくって……」
「充分です。手間をかけさせましたね」
晩餐用のドレスの上にそのまま慣れた手つきでエプロンを装着したウルスラは、手袋を外して侍女に渡し、邪魔な袖を捲り上げて気合いを入れるようによしと呟いた。
「出来るだけ急いで仕上げる必要があります。手の空いている者は手伝いを」
その言葉に、先程まで緊張していたはずの厨房の使用人達は一斉に頷いた。
この短時間でもウルスラが料理長や使用人達に敬意を払っているのがよくわかったし、屋敷の女主人自らがエプロンをつけて厨房に立つなんて事は、レインバード家の長い歴史の中でも初めてに違いない。
次第に興味の方が優ってきて、ウルスラが次に何を指示するのかが皆気になっていた。
それに、健啖家であるベルナールの食事が最近はほとんど手付かずで残っているのを、使用人達も皆心配していたのは確かだ。
「何でもお申し付け下さいませ、奥様」
厨房担当の使用人達は誰もが迅速かつ完璧に対応出来るよう、整然とそれぞれの担当場所に立ってウルスラに頭を下げたのだった。




