2.レインバード邸の不穏
──セレスタンの旅立ちからあっという間に半年が経過して、レインバード領は今やそこかしこに初夏の気配を感じるようになっていた。
無事にレインバード伯爵夫妻としての初めての社交期を終えた二人は早々に領地へと戻り、まだ経験が浅いながらもベルナールは伯爵として領地運営に関する執務に取り組み、ウルスラも伯爵夫人として屋敷の差配や次の社交期の為の準備を進めている。
日々、緑は濃くなり、日差しが少しずつ強くなるのを地面に落ちた影の濃さで知る。
屋敷の庭園も夏本番に向けて整備が進められており、庭師が管理する植物園ではハーブ類が勢いを増していた。
二人きりの屋敷にもようやく馴染みはじめ、忙しくも充実した日々であったのだが、最近のウルスラは度々じっと俯いて何かを考える姿を見せるようになっていた。
表情が変わらないので何を考えているのかは侍女にすらわからなかったが、それでもそれがきっと明るい内容ではないのだろうというのは纏う空気から容易に察しがついた。
「……本日も、ですか」
伯爵付きの従僕よりベルナールの晩餐不参加が知らされると、ウルスラはピンと伸ばした背筋をそのままに、何の温度も抑揚もない言葉で無表情にただ一言そうですかと答えた。
その瞬間、食堂にピリッとした緊張感が走る。同時に部屋の気温が下がったような気さえした。
忙しさを理由にベルナールが食事の席に姿を見せなくなってからしばらくが経つ。
仕事は順調にこなしているようではあるが、ここ数日は同じ屋敷に住んでいるのに夫の顔さえ見ていない。
(さすがに、良くない傾向だわ)
仕事に慣れてくれば、ベルナールは自分の仕事を然るべき相手に割り振って効率良く仕事をするだろうとウルスラは考えていた。
ベルナールだって最初はそのつもりで仕事をしていたはずだ。
けれど現状はどうだろうか。
彼は実に有能だ。経験不足からまだ自分に自信はないようだが、現にこうして伯爵としての仕事をほぼ一人で進めてしまえる程に有能だった。
そしてそれが一番悪かった。
騎士として鍛錬してきたベルナールは、並の貴族の数倍体力と根性がある。
そして実際にやってみたら一人でこなせる事が予想よりも多かったものだから、人に仕事を振るより自分がやった方が早いのではないのかと考えてしまったのである。
それには、他人に仕事を振るという事に慣れていないあまり、自分の仕事を他人にさせる事について罪悪感を覚えてしまったというのもあっただろう。
そして彼は、家令の補佐はあるものの、ウルスラにすら頼る事なく一人きりで代官と全てのやり取りをし、領地運営に没頭する日々を過ごしているのだった。
これが繁忙期の数日間だけであったなら、ウルスラも見守るだけにしただろう。
けれどこれではいけない。このままにはしておけない。
ウルスラはいつもよりも短時間で食事を終えると、その場にベルナールの補佐をしている家令を呼び付け、ついでに給仕の使用人と厨房の主たる料理長も呼び付けて静かに問うた。
「……旦那様のここ一週間のお食事はどのようになっていますか」
静かな口調の問い掛けにまず答えたのは、真白いコック帽を胸に抱くようにして持った料理長だった。
「はい。奥様と同じものをご用意してございます」
大柄な料理長はこめかみに汗を滲ませ、身体を縮こめながら頭を下げる。
その言葉に伯爵夫人はよろしい、と無表情のまま小さく頷いた。
「旦那様のお食事の時間は」
次に答えたのは一歩前に出た給仕頭だった。
「朝はお目覚めになられてすぐお召し上がり頂けるよう準備しております。昼は外出されている事が多うございますので、ご用意は致しますがお召し上がりになる事はほとんどございません。晩餐は……奥様もご存知の通り、ご用意はしておりますが……お休み前にお酒かお茶をお召しになる事が多く……」
「それ以上は言わなくても結構」
「は、はいっ」
給仕頭が首を竦めて元の位置に戻る。
そして最後に伯爵夫人ウルスラ・レインバードは淡々と家令に問うた。
「ここ一週間で旦那様が一日に最低二食、しっかりお食事をお召し上がりになったのは何回です」
家令はたっぷりした髭を蓄えた口元を僅かに歪ませて小さく息を吐き、重々しく答えた。
「……ございません」
「そう」
そしてウルスラは全て承知したとこっくり頷いたのである。
「──妻として、これを看過する事は出来ません」
そう言ってウルスラはすっくと席を立った。
同時に食堂に控えていた家令、料理長、そして全ての給仕とメイドが緊張した面持ちで背筋を伸ばす。
無表情で何事も淡々と完璧にこなす若奥様について、使用人達は未だその人となりを掴みかねていた。
結婚後早々に夫であるベルナールを『旦那様』と呼ぶようになり、日々粛々と伯爵夫人としての仕事に取り組む姿は、妻というよりまるで有能な侍女頭のようである。
夫妻の普段の会話も実にあっさりとした事務的なものが多く、とてもではないが新婚夫婦のようには見えなかった。
一部の使用人は、二人はそれなりに仲が良いのだと主張していたが、多くの使用人を抱えるレインバード邸において、夫妻の親密な様子を見たことの無い者の方が圧倒的に多かったのだ。
正直なところ、使用人達は前伯爵夫人アンジェレッタの親しみやすさに慣れきっており、全くタイプの異なるウルスラをどう扱って良いものか未だ手探り状態であった。
西部地域の由緒ある家門のご令嬢で、領地運営なども経験があり非常に優秀だという情報ばかりが先行してしまい、あっという間に伯爵夫人としてレインバード家に選ばれた女性というイメージがついてしまったのである。
何かミスをすれば、いや、若奥様の気に障るような事があれば、即座に紹介状も持たせて貰えず解雇されるかもしれない。
そんな話が使用人の間で囁かれるまで然程時間を要さなかった。
つまり、ウルスラをよく知らない使用人達は皆、有り体に言えば彼女を恐れていた。
「奥様、どちらへ」
食堂を出ようとするウルスラを慌てて侍女が追い掛けるが、ウルスラは侍女に幾つかの用事を言い付けてさっさとその場を後にする。
食堂に残された他の使用人達は思わず互いに顔を見合わせて、あの勢いでは若奥様は旦那様に離婚ないし別居を言い渡しにでも行くのではないかと困り顔になったのだった。