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1.それぞれの門出

「それじゃあ、行ってくるよ」


 そう言ってレインバード伯爵家の次男、セレスタン・レインバードが留学先へ出発したのが少し前、春の半ばのことだった。

 本当ならもっと早くに出立したかったのだろうが、セレスタンはベルナールとウルスラが無事に結婚し、そしてベルナールの後継者教育が完了するまでレインバード家に残って教育役を務めてくれたのである。

 しかし、出立をずらしたおかげで、海はやや穏やかな時期に差し掛かっていた。

 風も穏やかになるので船足がゆっくりになり旅費や旅程は通常よりも増すが、その代わりに嵐の危険性がないのは、本人にも見送る家族にも安心出来る要素だった。

 港に集ったレインバード家の面々のほか、駆け付けた友人らに見送られてセレスタンは颯爽と船に乗り込み、かと思えばすぐに甲板に出てきて皆に向かって大きく手を振っていた。

 旅立つセレスタンの顔には、期待と興奮、そしてほんの少しばかりの緊張が見えたが、不安だけは影も形もなかった。


 騎士になったベルナールに代わって長年レインバード家次期当主という重責を担っていた彼は、ベルナールが生家に戻った事でその座を兄に譲り、ずっと胸に秘めていた夢を叶える為に海の向こうの国へ医学や薬学を学ぶ為に留学に向かうのだ。

 ウルスラは彼の旅支度を少しだけ手伝ったので、彼が留学先の言語や文化について事前によく学んでいる事を知っていた。

 彼が旅行鞄に詰めた辞書や教本は、どれも使い込まれており、次期当主となるべく過ごす傍らで一人こっそりと勉学に励んでいただろう事が容易に窺えた。

 気になる事といえば、持参する衣服に平民が着るようなものが何着が混ざっていた事だが、薬草について学ぶとなれば実際に自分で育てたりもするかもしれないし、動きやすくて汚れても良い服も必要なのだろうか。


「セレスタン様なら、立派に医学を修めて帰国されることでしょう」


 そんな事を思い出しながら、心配そうに船を見詰めるベルナールにウルスラが声を掛けると、ベルナールは弟の乗った船からウルスラに視線を移して苦笑混じりに頷いた。


「そうだな。セレスも大人だ。いつもの調子で留学先でも何かやらかしはしないかと心配するのは、さすがにセレスにも失礼というものだな」


 ベルナールとセレスタンの両親であるアルマンとアンジェレッタにはベルナールの気持ちが理解出来たのか、どこか祈るような眼差しで海原へ進む船を見詰めている。

 やらかし、という言葉にウルスラはセレスタンの旅行鞄に詰められた平民の衣服の事を思い出したが、そこは敢えて淑女らしく口を噤んだ。

 ウルスラにはまだよくわからなかったが、レインバード家におけるセレスタンは『頭は切れるが時々突拍子もない事態を巻き起こす、もしくは巻き込まれている』という人物であるらしい。

 とはいえ、何か起こってもそのほとんどを自分で解決してしまうので、これまで問題はなかったようだ。

 そんな彼だからこそ、国外で何かに巻き込まれやしないかと心配するのは、家族からすれば当然の事なのかもしれなかった。


「……行ってしまったわね」


 次第に港から離れていく船を見送って、溜め息ともとれる吐息と共にアンジェレッタが呟き、アルマンがその肩を抱く。

 いくら気丈なアンジェレッタとはいえ、大事な息子の旅立ちともなれば寂しさが滲むのは仕方のない事だろう。

 ベルナールとウルスラが結婚した後、慣例に従ってアルマンとアンジェレッタはセレスタンを伴って領内の屋敷に移っており、王都での滞在にも他の屋敷を使っている。

 そこから更にセレスタンが去るのだから、夫婦二人だけの屋敷というものは妙に静かで広く感じるに違いなかった。

 しかし、その点においてはウルスラも似たものを感じていた。

 王都にあるレインバード伯爵家の屋敷は家格に見合う程にそれなりに大きいものだ。

 嫁ぐまではずっと家族と共に暮らして来たウルスラにとって、屋敷にベルナールとウルスラの二人だけというのは想像していたよりもずっとがらんとしているように感じられるのである。

 嫁ぐとはそういう事だと理解していても、なかなか慣れずにいるのは己の未熟故なのか。


「それでは、わたくし達もそろそろ行くわね」

「お義母様」

「どうしたの、ウルスラさん」


 募る寂しさからウルスラが思わずアンジェレッタを引き留めると、社交界の煌めくエメラルドことアンジェレッタは、今日も華やかな笑顔でなぁにとウルスラを振り返った。

 ウルスラは相変わらずの無表情のまま、ジッとガラス玉のようなヘイゼルの瞳でアンジェレッタを見詰め、逡巡の後に口を開いた。


「……私とベルナール様が王都に滞在するのは社交期のみですが、どうぞいつでも遊びにいらしてくださいね」


 最後に小さな声で寂しいので、と続けたウルスラの耳はほのかに薄紅に染まっている。

 令嬢時代、ウルスラは社交活動を得意とはしておらず、次期当主として教育は受けてはいても社交期を王都で過ごす事はほとんどなかったし、頻繁に交流するような相手もいなかった。

 けれども伯爵夫人となった今では社交活動とは義務である。

 ウルスラなりに努力して伯爵夫人として初の社交期を迎えようとあれこれ準備している事を、夫のベルナールだけでなくレインバード家の社交期の過ごし方についてレクチャーしたアンジェレッタも知っている。

 レインバード邸はたくさんの貴族から訪問を受ける事になるだろうが、人に囲まれているからといって孤独を感じないかといえばそれは否である。

 だからこそ、ウルスラはアンジェレッタに家族としていつでも訪ねて来てほしいと願ったのだ。

 それを見てウルスラの思うところを察したベルナールは微笑みながら頷いて妻の意見に賛成し、アンジェレッタは勿論よとウルスラを抱き締めた。

 唯一、ベルナールの父親であるアルマンはやれやれと苦笑していたが、それでも浮かべていたのはどこか穏やかな表情である。

 ずっと娘を欲しがっていたアンジェレッタが義娘のウルスラを溺愛している事はアルマンもよく知っている。

 それに、ウルスラにもアンジェレッタのように気負わず話の出来る相手との息抜きの時間が必要だと、長年レインバード伯爵として過ごして来た彼は理解していた。


「必ず遊びに行きますから、ウルスラさんも身体に気を付けて社交期を乗り越えてちょうだいね」

「はい、お義母様」


 アンジェレッタに抱き締められながら、ウルスラはこれから来る社交期に向けて気を引き締め直すと共に、今はまだ広さを持て余す屋敷もいつかは慣れていくのかしらと頭の片隅で思う。


 このようにして、家族の新たな旅立ちは、誇らしくも寂しさを含んで、レインバード伯爵家に新たな日々をもたらしていくのだった。

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