番外編・筆頭家令は知っている
ベルナール・レインバードが結婚し、その後、伯爵位を継承して正式に当主となって既に二ヶ月。
つまり、ウルスラがレインバード領の伯爵夫人となって二ヶ月が経過していた。
だが、基本的に使用人は主人の目に触れてはならないとされる慣習に加えて、数多くの使用人を抱えるレインバード邸では、未だに新たな『奥様』を目にした事のない者も少なからず存在していた。
「レインバード領に来てから一度も笑わないらしい」
「若様との会話もほとんどないんだってさ」
「茶会にも出ず、屋敷に閉じこもってるって本当なの?」
そういう事情もあり、レインバード邸の使用人の中では西部地域から来た若奥様に対し、数多の噂が飛び交う始末だった。
確かに、新婚であるというのにベルナールは領地運営の仕事にかかりきりだし、ウルスラはウルスラで屋敷の差配や義母から引き継いだ慈善事業など、伯爵家の女主人としての仕事で忙しくしている。
結婚後、二人は新婚旅行にこそ出掛けたものの、旅行から戻った後の屋敷での生活からは新婚の甘い空気は欠片も感じる事は出来なかった。
「まぁ、あんな短期間で決まった結婚だものねぇ」
夫妻にまつわる噂話は大体この言葉で締められる。
実際に二人を見た事のある人間でも、おおよそ同じ感想を持っていた。
だが、ごく一部の使用人は全く反対の意見を持っていたのである。
──とある古株の庭師はこう言った。
「俺が庭の手入れをしようとしたら、庭に人影があったんだよ。でもまだ夜明けの頃だし、一体誰だと思ったら坊ちゃんでさ。何でまたこんな時間にって声を掛けようとして気付いたんだよ」
曰く、ちょうど日が昇る時間にベルナールは妻・ウルスラと共に庭にいたという。
しかも、妻を横抱きにしたまま。
「何でだよって思ったね、俺ァ。でも、その日は朝露で芝生が湿っててなぁ。坊ちゃんは奥様が靴と服を濡らさないように抱き上げてたんだよ」
そして二人は、庭先で花々が朝陽を受けて蕾を綻ばせる様をしばらく眺め、無言で屋敷に戻って行ったらしい。
勿論その間、ベルナールはずっとウルスラを抱き上げていたという。それもかなり機嫌の良さそうな顔で。
庭師はその時の光景を思い出し、うんうんと頷きながら言った。
「ありゃあ、どこからどう見ても仲睦まじい新婚夫婦ってやつだったなぁ。見ていた俺も薔薇園の手入れについ熱が入っちまった」
そして最後に、彼は無精髭の生えた顎をさすりながらぽつりと漏らしたのである。
「……ああいうのをもっと周りに見せれば、あんな噂もたたないのになぁ」
──また、とある新人メイドはこう言った。
「私、その日は夜勤だったんです。その夜は旦那様と奥様は夜会に出席なさっていて、お二人がいつお帰りになっても良いように、屋敷の明かりはいつもよりも多く灯されていました」
曰く、夫妻の寝室がある階の廊下の灯りを確認に行ったところ、窓からちょうど馬車が戻って来るのが見えたという。
だが馬車はいつものように玄関先の馬車留めまで行く事なく、非常に中途半端な位置で止まってそこで夫妻が馬車から降りる姿を確認したのだ、と。
「私、最初は馬車に何かあったのかしらと思ったんです。でも旦那様達は屋敷ではなくそのまま中庭の方へと向かわれて……それで、私、見たんです」
二人の行動を怪訝には思ったが、夜勤のメイドは主人の帰宅を出迎えるというのも仕事の内なので、そのまま急いで階下に降りていった。
基本的に使用人は主人の目に触れぬよう、使用人用の廊下や階段を使う。
そしてメイドが玄関に向かおうと中庭に面する使用人専用廊下を通ったその時、彼女は目撃したのだ。
「本当に、本当に素敵だったんです。あの夜は満月で外が明るくて、中庭でお二人が踊る姿はまるで御伽話みたいで! どうして踊ってらしたのかはわからないですけど、もしかしたら夜会で踊り足りなかったのかもしれませんね」
そしてメイドは夢見るようなうっとりとした表情で言ったのである。
「恋愛小説に出てくる相思相愛の恋人達が実際にいたらあんな感じなのかしら……。いつもあんな風なら、変な噂も立たないのになぁ」
──また、とある若い護衛騎士はこう言った。
「普段は良いんですよ。屋敷であれば我々護衛騎士は部屋の外での警備が多いですし。ただ、部屋の中での警備の時は当たり外れが大きいんですよね」
曰く、夫妻は周りの目が少なければ少ないほど、物理的な距離が近付いていくのだという。
それは例えば何かの報告書についてベルナールがウルスラに意見を求める時であったり、ウルスラが実家から送られて来た手紙をベルナールと共に読む時であったりと様々だが、普段の素っ気の無さが嘘のようにぴったりと寄り添っているのだ。
甘い言葉を交わすだとか、そういう事は一切無い。
もしかしたら、夫妻にも距離が近いという自覚がないのかもしれない。
しかし、傍からそれを見ている護衛騎士達は、二人のそんな様子に直面する度に心の底から焦ったく感じていた。
「お二人が結婚された経緯はそれぞれ複雑だったかもしれませんが、お二人がお互いにそれはもう相手の事を大切に思っているのは間違いないですね。問題は、その自覚がお二人にない事です」
ベルナールもウルスラもお互いに尊敬の念は表しても、好意、もっと言ってしまえば愛情を表立って伝える事がほとんどない。
護衛騎士は、最後に溜め息混じりに言った。
「もっと皆の目のあるところで新婚らしい初々しさとか甘酸っぱい空気とか出して頂けると、我々も護衛中に幻覚を見ているのではないだろうかと自問自答する日々を終えられるし、あんな噂も一掃出来ると思うのですが。
──家令殿、どう思われますか?」
レインバード家に仕える者達が一番に信頼する相手である家令は、護衛騎士の言葉にゆっくりと頷いて答えた。
「……この問題は、時間が解決してくれるでしょう」
庭師もメイドも護衛騎士も、レインバード夫妻の仲睦まじい姿を目にしてはいるのだが、いかんせんその目撃者が自分だけであるので、誰に話したとしてもあまりに信憑性が薄い。
何より、ここは伯爵位家門筆頭たるレインバード家である。
仕える主人のあれこれをやたらと他人に話す訳にもいかない。
例えそれが使用人仲間であってでも、己の心一つに秘めておくのが一流の使用人というものだ。
しかし、自分の胸にのみ抱えているのがどうにも辛くなった時、彼らはこうして使用人の相談役も兼ねている筆頭家令のもとを訪れては、自分の見聞きした事と感想を伝え、スッキリして再び己の持ち場に戻っていくのである。
同じ使用人ではあっても、家令というのは主人の代理も務めるという重要な立場であり、そもそもの口の堅さが要塞級である。
それ故、皆安心して家令にだけ話を伝えに来るのだった。
「──さて、どうしたものでしょうか」
その日も、話すだけ話してスッキリした護衛騎士を見送って、家令はうぅんと唸り声を上げた。
夫妻を一番近くで見てきた家令は、ベルナールとウルスラがお互いに慕いあっている事は当然知っている。
自分が相手に愛されているという点について、当人達にいまいち自覚がないという事も知っている。
だが、こういう事は周りの人間がやたらと差し出口を挟むものではないのだ。
使用人達からの『報告』については、夫妻が愛情で結ばれている事を自覚すれば即座に解決すると解っていても、それはあくまで夫妻が自ら気付くべき事である。
(とは言え……あのお二人が、世の恋愛というものに通じているとも思えない)
恋愛に疎い二人だからこそ、周りばかりが焦ったくなるような事になっているのではないか。
家令は一頻り考えて、深く溜め息を吐いた。
もし、もしもだ。もしもこの状態があと三ヶ月続くようなら、その時は使用人達の心の安寧と夫妻の関係性改善の為に家令としての領分を超えてでも何らかの手を打とう。
レインバード家に仕える使用人達からの報告の数々により、今や屋敷で一番夫妻の仲睦まじさを知る立場となった家令は、そんな密かな決意を胸に抱いて一人深く頷くのだった。
三ヶ月後、二人の関係がどのように変化しているのか。
今はただ、神のみぞ知るところである。




