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1.レインバード家のあれこれ

 ──その時、ベルナール・レインバードは咄嗟に隣に居た騎士見習いの少年の腕を引き、庇うように半歩前に出た。

 驚いて声を上げる少年とベルナールの位置が入れ替わった次の瞬間、左腕に焼けるような衝撃を感じて呻き声を上げる。


「ぐぅ……ッ!」

「先輩!」


 次いで襲ってきた痛みに思わず足がよろけ、咄嗟に視線が地面に向いたのと、そこに赤い雫が落ちたのはほぼ同時だった。


「誰か医者を! 医者を呼んで来い!」


 止血を、だとか、しっかりしろ、だとか、そんな言葉が一斉に飛び交っているのを何処か他人事のように聞きながらベルナールが左腕を確認すれば、そこには折れた刃が深く刺さっていた。

 訓練用の剣は全て刃を潰してあるのだが、劣化によって折れた鋭利な断面部分が勢いを付けて突き刺さったようだ。

 これは刃を抜いた方が余計に出血するかもしれない。

 そう考えてベルナールは周りの騎士の手を借りて手早く止血を済ませ、自らの足で医務棟へ向かって歩き始めた。


(……あぁ、これはあの日の夢だ……)


 次第にボヤけていく視界は、瞬きの後に別の場所を映していた。

 診察用の椅子に座った自分を俯瞰で見下ろし、これは診察室で医師から怪我について診断を聞いた日のことだなと思い至る。

 夢の中の自分が、包帯で固定された左腕を見下ろしながら医師に問うた。


「時折、左手の感覚がおかしいんです。痛み止めの副作用でしょうか。治療を続ければ時間経過で治りますか?」

「……非常に申し上げにくいのですが……」


 ぼんやりと滲んでいく医師の声。

 診察室の風景もぐにゃりと歪んで、溶けるように消えていく。

 ──その後遺症は……。

 最後の方はよく聞こえなかったが、それはあくまでも夢の中の話。

 ベルナールの胸にはあの日医師から告げられた言葉が今もなお鮮明に刻まれている。


(……まだ、未練があるのか)


 真っ暗な闇の中で意識だけが浮上していくのを感じながら、のろのろと目を開ける。

 閉められたカーテンの隙間から漏れる微かな陽光と、外から聞こえる鳥の声が薄暗い部屋に新たな朝を告げていた。


(もう心の整理はつけたと思ったんだがな……)


 ベッドに横たわり、しばらく天井を見詰めていたベルナールは、左腕に負荷をかけないように注意しながら起き上がってほんの少しだけカーテンを開ける。

 見上げた空は雲が多く、窓の外はこの時間にしては少し暗かった。


 ほうと大きな溜め息を吐いた彼、ベルナール・レインバードはレインバード伯爵家に生まれた長男であり、王宮騎士団に所属する騎士だった。

 学校を卒業した後、そのまま騎士団に所属したので在籍年数はかれこれ十年ほどになる。

 学生時代から騎士になるべく訓練を受けていたベルナールは、騎士団内でも割と早くに騎士叙勲を受けており、このままいけば王族の護衛騎士に取り立てられるのも時間の問題だと噂されていた。

 しかし、怪我の後遺症で騎士団を退団した今となっては、そんな過去の栄光はどれも虚しいだけである。


(もう決めた事とはいえ、俺に騎士以外の生き方が出来るのかは今だに甚だ疑問だな)


 窓から見える屋敷の庭園を眺めながら、先程まで見ていた夢の内容に複雑な表情を浮かべたベルナールだったが、幾らもしない内に使用人が朝の支度の為に部屋を訪れたので彼の思考は一旦そこで区切られたのだった。




「おはよう、兄さん。具合はどう?」

「おはよう、セレス。あぁ、もうすっかり落ち着いている」

「それは良かった」


 食堂へ向かう廊下で弟のセレスタンと顔を合わせて何気ない会話を交わす。

 向かった食堂には既に両親が揃っており、兄弟は遅れた事を詫びていつものように家族で朝食を囲んだ。


 ベルナールの生家であるレインバード伯爵家は、伯爵位を持つ家門の中でも序列が高く、領地の広さも他の伯爵家と比べると頭ひとつ抜きん出ていた。

 その分、かかる重責も他家の比ではないが、長い歴史の間でレインバード伯爵家の権威が揺らぐ事はこれまで一度としてなかったし、その絶対的な権威こそレインバード家の誇りでもあった。

 既に次代の伯爵として、騎士となったベルナールの代わりに弟セレスタンが控えているので今後の伯爵家も安泰である。

 今は怪我の療養の為に屋敷に戻っているベルナールだが、傷が癒えて日常生活に支障が出なくなった頃合いで、領内のどこか長閑な場所に移り住もうと思っていた。

 そこで商会の手伝いや農業などを営みながら少し早めの隠居生活を送るのだ。

 ──そう、思っていたのだが。


「父上。話があるのですが、今よろしいですか」


 朝食を終え、食後のお茶を飲みながらその日の予定を確認するのがレインバード家の習慣である。

 その日も同じように皆がそれぞれの予定を報告した後、徐にセレスタンが発言の許可を求めた。

 伯爵がそれに応じると、セレスタンは決意の滲む声音で言った。


「兄上が屋敷に戻った事だし、僕はこれを機に留学したいと考えています」


 ゆっくりと、しかしはっきりと告げられた言葉にセレスタン以外のレインバード家の者は一同言葉を失った。


「セレスよ。一体何を言い出すのだ。お前は次期レインバード伯爵だろう」


 驚きと困惑を含んだ声音で父、レインバード伯爵アルマンが言う。

 普段落ち着き払っている父のこんな慌てようは初めて見るなと思いながら、ベルナールはセレスタンの表情を見遣った。

 弟に怯む様子はなく、おそらくこれは随分前から考えていた事なのだろうと察するのは容易だった。

 そして、己がそれを察したのなら、父がそこに気が付かないはずもないのだ。

 セレスタンの思惑を察したらしい伯爵は、どかりと椅子に座り直し、眉根を寄せて喉の奥で唸り声を上げていた。


「どうして突然そんな事を……。これまでずっと次期伯爵として努めてきたではありませんか!」


 むっすりと黙り込んだ伯爵の代わりに声を上げたのは母である伯爵夫人だった。

 彼女は普段優雅さで覆い隠している生来の気性の荒さを露わにし、珍しく音を立ててカップをソーサーへ戻して唇を震わせた。


「セレスタン、お前、ずっとそんな事を考えていたのね? だからわたくしがどんなに言っても婚約しなかったのでしょう!」


 ピシャリと叩きつけるように言われてセレスタンは苦笑して肩を竦めた。


「まぁ、そういう事になりますね。でも兄上にも婚約者はいなかったし、その点は特に問題なかったでしょう?」

「ベルナールはいざとなれば騎士の誓いを立てて一生独身を貫けるから良いのです! わたくしは! 今! お前の話をしているのよ!」


 母の口から出た騎士という単語にベルナールは思わずぴくりと肩を揺らした。

 あのまま順当に王族の護衛騎士にでもなっていれば、母の言う通り、主となる尊き方に騎士の誓いを捧げ独身を貫く事もあったかもしれない。

 だからこそベルナールは、伯爵家に生まれながら今まで婚約者を持たない事を許されていたのだ。

 だが、その事を弟に上手く使われていたとは思わなかった。

 弟の要領の良さに感心しながらベルナールは事の次第を見守っていた。


「学校を出てずっと教育を受けて来たのは何の為だと思っているの。教育には時間も費用も掛かります。伯爵家に生まれたからと言ってただ享受出来るものではないのです。そこには果たすべき責任があるのですよ」


 理解していますか、と続く母の言葉はベルナールの胸にもグサグサと突き刺さった。

 どうしても騎士になりたかったベルナールは、学校に入学する年に次期当主の座を放棄し、代わりに弟が次期当主として教育を受ける事が決まっていた。

 最初に己の願望を優先して果たすべき責任から逃げたのはベルナールであったのだ。

 身体を動かす事が何より好きだったベルナールとは違い、弟のセレスタンは幼少の頃から頭の回転が早く、学ぶ事が大好きだった。

 そして何より、ベルナールの夢を一番応援してくれたのもセレスタンだった。

 騎士の物語を描いた本を抱いて「王国で一番の騎士になってね」と微笑んだ幼いセレスタンにベルナールはたくさんの勇気を貰ったのだ。


(そういえば昔から外国の話に興味を示していたな。ずっと留学したいと思っていたのではないだろうか……)


 セレスタンの部屋の本棚には外国の本も多い。

 学ぶ事の好きな彼にとって、それはただの趣味の本というだけではなかったのかもしれない。


(果たすべき責任、か)


 先程セレスタンはベルナールが屋敷に戻った、と口にした。

 それはつまり彼の中では自分が騎士を辞めて屋敷に戻るという事が、彼の夢を後押しする大きな要素になっている、という事だ。

 ついにしんと静まり返ってしまった食堂内を見回し、ベルナールは一度セレスタンに微笑みかけてから口を開いた。


「私はセレスの夢を叶えてやりたいと思います」

「兄上……?」

「今から父上の仕事を全て覚えるのは骨が折れるでしょうが、私が改めて次期当主として教育を受け直します。私が一通りの教育を終える事をセレスタンの留学の条件とするのはいかがでしょうか」


 その言葉にパッとセレスタンの表情が明るくなる。

 セレスタンがこの話を先に己に通さず、今日この場で初めて口にしたのはおそらく遠慮したからだとベルナールは理解していた。

 もし先に話をすればきっと自分はその時点で頷いた。それを押し付けと考えたからこそ、この家族全員が集まるタイミングで彼は話を切り出したのだろう。


(あの時、俺は自分の夢をセレスに叶えて貰ったのだ。今度は私が彼の夢を応援しよう)


 今こそ別の生き方を、騎士ではない自分を始める時なのだ。

 剣の道に全力を注いだように、次は家門の為に全力を注ごう。

 そう決意したベルナールは真っ直ぐに父を見詰めた。


「在学中に基礎教育は終えていますが、伯爵となるに必要な教育は幅広い。私は父上とセレスタンからそれを学び、立派に次期レインバード伯爵として名乗れるよう全力で取り組む事をここに誓います」


 ベルナールの言葉に、大きく溜め息を吐いてから母が頷いた。


「……ベルナールは教育を終えていないとは言え嫡子。ベルナールに次期当主となる覚悟があるのなら、わたくしは何も言いません。……ただし」

「何でしょう」


 母、レインバード伯爵夫人アンジェレッタは、社交界において煌めくエメラルドと評される美しい瞳でベルナールに鋭い視線を向けて言った。


「この先お前の傷が癒え、以前のように剣を振るう事が出来るようになったとしても、二度と騎士に戻る事は許しません。今日この日、この時から、お前は家門の為にのみ生きると誓いなさい」

「誓います。私は二度と騎士団には戻らず、レインバード家の為に力を尽くしましょう」


 口にした言葉はひどく重かった。

 だが、この重さを、責任を、自分は弟に課していたのだ。


 その後、家族とも話し合い、ベルナールは自らの教育期間を一年間と定めた。

 数年かけて行う教育を一年で行う事に不安もあったが、一日でも早く弟を留学に送り出してやる為だと思えばやる気が湧いた。



 それから数日後。


「兄さん。今日から兄さんがレインバード小伯爵だね」

「まだ先は長いがな。よろしく指導してくれよ、セレス」

「任せてよ。この日の為にノートを作ってあったんだ」


 じゃれるように会話を交わしながら屋敷の廊下を歩く兄弟を、雲の切れ間から差し込んだ陽光が穏やかに照らしていた。


 ──こうして、ベルナール・レインバードは再び次期当主として教育を受け直す日々を送る事になったのだった。

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