番外編・伯爵夫人は忙しい
──伯爵夫人ウルスラ・レインバードの朝は早い。
通常、社交期などは特に夜が遅くなる事も多いので用がなければ昼近くまで寝ている貴族女性も少なくない中、ウルスラは来客や訪問等の予定が入っていない日でも朝日と共に目覚めて一日を開始する。
理由は簡単だ。伯爵夫人としての仕事が大変だから、ではなく夫が早起きだからである。
夫であるベルナール・レインバードは元騎士であり、騎士団時代の癖で起床時間が早い。
そして彼は起床後には自ら身支度を整え、朝食前に軽く(※本人比)身体を動かす事を習慣にしている。
ウルスラは、そんな夫の朝の鍛錬をこっそり見学する事を最近の生き甲斐にしていた。
怪我の後遺症で騎士団の規定に添えなくなり退団した後、ベルナールは自分の手にも扱える細身の片手剣を特別に誂えている。
実用性を重視したのか随分と飾り気のない剣だ。
その剣を振るう姿を、ウルスラは屋敷二階の窓から眺めているのである。
鍛錬を眺めるウルスラの表情はいつも通りの無表情だが、ほんのりと薄紅に染まった耳と漏れる感嘆の溜め息が彼女の心情を表していた。
(あぁ、今朝のベルナール様も何て素敵なのかしら……!)
爵位を引き継いだ際にけじめだと言って騎士の身分を返上したが、凛々しい表情で剣を振るう夫の姿は騎士そのものであり、いつまででも見ていられるとウルスラは心の底から思っている。
これを見るのと見ないのとでは、この後の一日を過ごす気の持ちように雲泥の差が出るのだ。
本当ならもっと近くで眺めたいのだが、ベルナールはウルスラが鍛錬を眺めている事を知らないのであまり距離は詰められない。
なんなら表向き己はまだ寝ている事になっているのだから、こうして気配を殺して見学しているのである。
実は、結婚当初こそ一緒に起きていた。
しかし最初は朝の鍛錬の存在を知らなかった為、ウルスラはベルナールがただ早起きなのだとばかり思っており、起床後から朝食までの空いた時間を伯爵夫人としての雑事処理にあてていた。
だが、それもしばらく続けば次第に早起きの理由にも気が付き、ウルスラがそわそわした気持ちで鍛錬の間は近くで見学しても良いかと問おうとした朝に、ベルナールが彼なりに気を遣って侍女が起こしに来るまで寝ていて良いとウルスラの早起きにストップをかけたのである。
ウルスラとしてもベルナールのそんな気遣いや優しさが嬉しかったし、そもそも侍女が起こしに来るまで寝台で待つのは貴族女性のマナーのようなものでもある。
自分が起きた気配でウルスラも目を覚ましている事に気付いたベルナールが、己のせいで妻の睡眠を妨げてしまっていると勘違いしてしまうのは貴族であれば仕方のない事だ。
独身時代は早起きをして遠乗りに行く事もあったから気にはしていなかったけれど、もしかしたら貴族女性としてははしたないと捉えられてしまうのかしら。
そう思ってからは、ウルスラはベルナールの言葉に(表向き)従い、彼がウルスラを起こさないように静かに起床し身支度を整える間、大人しく寝台に横たわって寝たふりに徹していた。
そしてベルナールが身支度を整えて寝室から出ていき、廊下を歩く足音が遠ざかった瞬間にウルスラは跳ね起きて行動を開始するのである。
寝ぼけた様子の一つも見せずにさっさと洗顔用の水を用意し、洗顔後は手足を清め、慣れた手付きで髪を梳き、コルセットを必要としない自宅用の身軽なドレスを身に付けて今や朝の指定席となった窓の位置まで早足で廊下を進む。
雨の日だと彼は温室で朝の鍛錬を行うので天候のチェックも忘れない。
大体この流れでウルスラがいつもの場所に辿り着くと、ベルナールは入念な準備運動を終えて剣の素振りを始める頃合いなのでちょうど良い。
(……そろそろ時間ね)
そうして夫の鍛錬姿をじっくり堪能したウルスラは、侍従が汗を拭う為の手巾を差し出したのを見て、そっとその場を離れるのだった。
「あぁ、ウルスラ。おはよう」
「おはようございます。旦那様」
さも今起きてきましたという様子を装い、ウルスラは自らの無表情を最大限に利用して何でもない顔で朝食の席についた。
ベルナールは朝食前に軽く湯を浴びたのか、緩い癖毛の黒髪が濡れていて、ウルスラはそれをじっと見詰めてもっとしっかり乾かすよう夫に進言する。
「旦那様、濡れたままではお風邪をお召しになります」
「あ、あぁ、すまない。気を付ける」
湿った前髪を指先で摘みながら苦笑するベルナールの様子を見るに、どうやら今日の見学もバレてはいないようだ。
その事に胸中でホッと安堵の息を吐き、ウルスラは背筋を伸ばして今朝もピカピカに磨かれたカトラリーを手に取った。
(本当は朝の鍛錬の時、侍従ではなく私が直接手巾を渡して差し上げたいのだけれど、それを言うと私の早起きがベルナール様にバレてしまうわね)
そもそも自分は伯爵夫人として立派に家門を支える為に嫁いで来たというのに、このように浮ついてばかりいてはいけない。もっと気を引き締めなければ。
そんな事を思いつつナイフとフォークを動かしていたウルスラだったが、ベルナールに呼ばれて顔を上げる。
「……何か?」
ベルナールはどこか緊張した面持ちでしばらくうろりと辺りに視線を彷徨わせていたが、覚悟を決めたのかおずおずとウルスラを見詰めてそっと口を開いた。
「君に確認しておきたい事があるのだが……」
「何でしょう」
まさか鍛錬を覗き見ているのがバレてしまったのだろうか。
嫁いだばかりで夫にはしたないなどと思われたりしたら、今後どんな顔をしてこの屋敷で生きていけば良いのか。いや、どんな顔も何も己の表情はいつ何時でも変わりはしないし、この顔以外に顔などないのだが。
緊張に心臓が早鐘を打つのを無表情で隠して、ウルスラはそっとカトラリーを置いて無言で話の先を促した。
「以前君に朝はゆっくりしてくれて構わないと伝えたが……、もしや君は朝が早いタイプなのだろうか」
「どうしてそのような事をお尋ねになるのです」
「あぁ、今朝、鍛錬を終えた後でたまたま寝室に戻ったのだが、その時に部屋の温度が大分下がっていたから早目に朝の換気をしたのかと思ってね」
ベルナールの話を聞いて、部屋の温度は盲点だったとウルスラは内心歯噛みしたが、まだ己の早起きが勘付かれただけだ。
朝から熱心に夫の鍛錬を眺めている事はまだ気付かれてはいない。
ウルスラはそっと口許をナプキンで拭い、こくりと頷いた。
「えぇ、私はどちらかと言えば早い時間に目が覚めます」
そして続けて言った。
「旦那様がお目覚めになる頃に、自然に目が覚めるのです」
その言葉に、ベルナールは何処かホッとした表情になり、そうかと一言呟いた。
そんな夫の様子にウルスラは僅かに首を傾げる。
「私の起床時間について何か……」
「あ、あぁ、いや、問題はない。問題はないんだ。だが、そうか、君は早起きが得意なのか」
「はい。さすがに明け方まで夜会に参加した日などは起きられませんが……」
それが何かと問えば、ベルナールは小さく咳払いをしてから口を開いた。
「私は毎朝剣の鍛錬をしているのだが」
「はい。存じております」
「どうやら剣を十全に使うにはまだ腕の回復が追いついていないようで、毎朝はやり過ぎではないかと言われてしまってね。それで、週に何度かは剣は使わず軽い運動のみに留めようと思っている」
「さようで」
「だから、あの、少し時間が空くんだ。それで、季節も良い事だし、君も早起きが得意であれば、その……」
「何です?」
背筋をピシッと伸ばし顔を上げるウルスラに、ベルナールは照れたように小さく笑う。
「良ければ一緒に庭の散歩でもどうだろうか。日中はお互い忙しいし、これからますます時間を合わせるのも難しくなるだろうから」
「喜んでご一緒させて頂きます」
剣術の鍛錬が減るという事はそれを見学出来る機会も減るという事だが、まずはベルナールの身体が第一だし、共に過ごせる時間が増えるのならばそれに越した事はない。
ウルスラは一も二もなく頷いた。
無表情に頷いたウルスラの耳がほんのり薄紅色を帯びた事に気付いたベルナールは、朝一番の仕事をやり遂げたとばかりに満足そうに微笑み、その笑顔を直に浴びたウルスラの耳はますます赤く染まるのだった。
それからというもの、ウルスラは引き続きベルナールの鍛錬をこっそり見学しつつ、週に何度かは共に朝の庭園を散歩するようになった。
また、鍛錬が終わる頃を見計らって手製のレモネードを差し入れたりもした。
手製である事は隠しているが、ベルナールが気に入ってくれたようなのでレシピの改良にも余念がない。
鍛錬をこっそり見学するだけでなく、日によっては散歩の時間に間に合うよう散策用ドレスと化粧で身支度を整えたり、時に厨房でさっとレモネードを拵えたりと、やる事は以前よりも増え、日中は伯爵夫人らしく淑やかに振る舞うウルスラが、朝に限り廊下を駆け抜けるかのような早歩きで進む割合も高くなったが、彼女は幸せそのものだった。
ただ、侍女すら伴わない夫妻の朝の散歩は屋敷の使用人達が朝の支度に追われている一番忙しい時間帯に行われており、使用人達はほとんど誰も二人が散歩する姿を目にすることはなかった。
その一方で、早朝から屋敷内を慌ただしく早足で移動するウルスラの姿だけは皆見かけていた。
そしてそんなウルスラの最たる特徴とも言える無表情からは彼女が朝から非常にわくわくそわそわしているのが読み取れなかった事等、色んな偶然が重なり、屋敷の使用人達の大方は一様にこう思っていた。
──前伯爵夫人とは違って朝からあんなにあれこれとなさって、伯爵夫人とは本来とても忙しいものなのだな、と。
確かに、伯爵夫人ウルスラ・レインバードは多忙である。
屋敷の人間が彼女の朝の忙しさの理由を知るまでにはもうしばらくの時間を要するのだが、それはまた別の話である。