エピローグ
──雨が、降っていた。
灰色と黒色の中間のような暗い色をした雲が厚く空を覆い、大粒の雨が窓硝子を強く叩いている。
真昼だというのに、部屋の中はカーテンを開けていても灯りが必要な程に暗かった。
ベルナール・レインバード伯爵は、父から引き継いだ仕事の書類の山を前に喉の奥で小さく唸り声を上げ、それを見た家令がそっと主人に進言する。
「……旦那様、少し休まれてはいかがですか」
机の上の書類はまだ半分も終わっていなかったが、もう随分と長い事座りっぱなしである。
一息入れたい気持ちと、キリの良いところまで仕事を進めたい気持ちがベルナールの中で拮抗した。
そんな迷いを察したのだろう。
家令はさも今思い出したといった顔で『独り言』をこぼした。
「そういえば、そろそろ奥様のお茶の時間でございますね。最近はサロンでお茶の時間を過ごされますが、この悪天候では心細く思われるかもしれませんね……」
その大き過ぎる独り言を聞き、ベルナールは更に少し考えてから無言で立ち上がったのだった。
──雨が、降っていた。
ウルスラ・レインバード伯爵夫人は、降り続く雨の音を聞きながら暗い廊下を供も付けず一人で歩いていた。
この雨が降り出す前に領内の治水工事がひと段落していたのは幸いだった。
前伯爵から引き継いだ治水工事が無事に完了した事は、夫であるベルナールの功績の第一歩となるだろう。
ただ、その件を含めて夫はしばらく忙しくしており、最近は寝る前にゆっくり話をする暇も無い事をウルスラは寂しく感じていた。
(お名前をお呼びするのは寝室でのみ、だなんて約束しなければ良かったかしら)
婚約者の頃は名前で呼んでいたが、結婚し、伯爵夫人となった己には女主人としての責務がある。
名前で呼ぶとどうにも気持ちが緩んでしまう気がして、ウルスラは初夜を迎えたその日に、ベルナールに名前を呼ぶのは寝室でのみにしたいと申し出ていた。
せめて普段から名前を呼べていたら、この寂しい気持ちも少しは晴れただろうか。
そんな事を考えてしまうのは、己が未熟な証拠だろうか。
あれこれと考えながら廊下を歩いていたウルスラは、ふと立ち止まって窓の外を見上げた。
空は暗く、雲も厚く垂れ込めていたが雷は鳴っていない。
(まるで、あの日に見た空のようだわ)
己がアッシュフィールド家の次期当主の座から退く事を決めた日もこんな雨が降っていた。
あの日も、自分はこんな風に空を見上げていたのだ。
「──ウルスラ?」
ぼんやりと過去を思い出していたウルスラは、名前を呼ばれてハッと我に返り、声のした方へ視線を向けた。
「旦那様」
「こんなところでどうしたんだい」
そう問われて、ウルスラは夫を息抜きがてらお茶に誘う為にここまで来た事を思い出す。
あまりに記憶の中の空に似ていたから、つい感傷に浸ってしまっていた。
気を取り直して、ウルスラは背筋をピンと伸ばした。
「侯爵夫人よりお菓子を頂きましたので、旦那様にもお召し上がり頂きたくお声掛けに伺うところでございました」
「そうだったのか。私もちょうど休憩しようと思っていたんだ」
「それはよろしゅうございました。サロンにお茶の支度を調えております」
そう言って踵を返そうとしたウルスラだったが、今度はベルナールが窓の外を見上げてどこか遠くを見る眼差しになったので、思わず動きを止めてしまった。
ベルナールは窓の外を見詰めたままぽつりと呟く。
「……私が騎士団の退団を決意したのもこんな雨の日だったな……」
その声に複雑な感情が含まれている事を感じたウルスラは、無言のままベルナールの左側に立つと、彼の左腕にそっと腕を伸ばして抱き締めた。
ベルナールはウルスラからのスキンシップに一瞬驚いた顔をしたが、すぐに嬉しそうに小さく笑って再び窓の外を見遣った。
「あ」
「あら」
と、その時、厚い雲を割って一筋の陽光が地面へと差し込むのが見えた。
二人がその光景を見つめていると、あっという間に何本もの光の筋が次々に大地へと伸びていく。
しばらくすれば、それらは一本の大きな光の束となって大地を照らし、空を覆う雲の色も大分薄くなっていた。
「雨が止む瞬間は初めて見たな」
「私もです」
この時期の雨は恵みの雨だ。
たっぷりと水分を含んだ地面は陽光を浴び、日毎に青々とした緑で覆われて、木々の若葉もこれから一層煌めく事だろう。
大地が陽光を受けてキラキラと輝く様を、レインバード夫妻は寄り添いながらいつまでも眺めていた。
──雨は、もう降ってはいない。
ここまで読んで下さった皆様、応援して下さった皆様に心より感謝申し上げます。
お陰様で無事完結させる事が出来ました。
初めての長編作品で至らない部分も多々あったかと思いますが、少しでもお楽しみ頂けましたら幸いです。
お時間ありましたら、短編版『伯爵夫人は笑わない』とスピンオフ『薬師と猟師と秘密の話』もよろしくお願い致します。