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16.伯爵夫人は笑わない

 レインバード家とアッシュフィールド家の結婚式は、王都の大聖堂にて厳かに行われた。

 怪我により王宮騎士を辞し、元々後継者として内定していた弟に代わって次期当主として返り咲いた小伯爵ベルナール・レインバードは、帯剣こそしていなかったが、婚礼衣装を着ていてもどこか騎士のような凛々しい風格を漂わせ、一方、妹に婚約者を奪われて次期当主の座を自ら退いたとされるウルスラ・アッシュフィールド伯爵令嬢は、精緻なレースをふんだんに使用しつつも慎み深い純白のドレスにその身を包み、浮かべた静謐な表情がまるで神話に登場する女神のようであったと参列者は後に語った。


 由緒ある家門同士の結婚は、当の本人達が抱えていた事情から、貴族のみならずゴシップ紙や貴族のスキャンダルが大好きな庶民にも注目されており、大聖堂から貴族街にあるレインバード邸へ向かう道には、二人を祝福したいと考える者以外にも好奇心旺盛な者達で溢れていた。

 二人を乗せた花の飾り付けられた馬車が大通りを進むと、人々が歓声を上げて手にした祝福の花を投げる。

 時折、花婿が馬車の窓から手を伸ばしてその花を受け取り、花嫁が窓越しに白い長手袋をした手を振って歓声に応えている。

 母親に連れられて婚礼馬車を見物に来ていた小さな男の子は、馬車に花を投げてから不思議そうに首を傾げて母親を見遣った。


「ママ、あの花嫁さんはどうして笑ってないの?」


 母親は幼い息子の疑問に少しだけ困ったが、すぐに笑顔で答えてやった。


「有名なお貴族様だもの。きっと貴族の作法だとか、何か決まり事があるのよ」

「ふぅん?」


 よくわからないでいる息子を抱き上げ、母親は子供に聞かれないように呟く。


「──貴族ならきっと政略結婚よ。嬉しくも何ともないわよね」


 大通りの賑わいでそんな呟きはすぐにかき消され、馬車の音も遠ざかっていく。

 人々は、それぞれ自分が一番楽しめる理由が真実だと信じて疑わず、様々な憶測と根も葉もないゴシップが世間を更に楽しませる。

 貴族の結婚とは、庶民にとって一つの娯楽でしかなかった。

 だが、しばらく世間の噂話の中心となるであろう当人達はと言えば──。


「……式も無事に終わったというのに、まだ不思議な心地が致します……」

「私もだ。君に婚約を申し込んでから……いや、正確にはその前からか、ひどく慌しかったからだろうか」

「お互い色々ございましたものね」


 窓から外の様子を見ながら、周りから見える姿と実態の乖離を地でいくかのように非常にのんびりと言葉を交わしていた。


「まさか自分が婚礼衣装を着る日が来るとは、あの時の私は思いもしませんでした」

「そういえば君は修道院に入るつもりだったと言っていたか。私もセレスが伯爵位を継ぐ頃には家を出て、領地のどこか田舎で暮らそうと思っていた」

「レインバード領のどの辺りか、お決めになっていたのですか?」

「領の西端に程よく田舎の街があって、気候も良くて料理も美味いから候補にしていたな」

「さようでございますか」


 ウルスラは隣に座ったベルナールの横顔をじっと見上げる。


「いつか私をその街へ連れて行って頂けますか?」

「構わないが、そこは観光地も何もない田舎街で……」

「ベルナール様が終の棲家として候補に入れた土地に興味がございます」

「そうか」


 昨日までの婚約者であり今日からの伴侶となるウルスラのあまりにも些細な願い事に、ベルナールはふっと表情を和らげ、民衆から投げられた花の中から白い花を一輪選んで花嫁の髪に挿して頷いた。


「あぁ、二人で行こう。他にも君に見せたい土地はたくさんある。レインバード領を君に愛して貰えるよう、私も頑張らなければな」


 そして二人を乗せた馬車は、周りの喧騒など気にもせず、悠々とレインバード邸へと向かったのだった。




 伯爵邸では親族や友人らなど、親しい間柄の者達をはじめ大勢が二人を待ち受けていた。

 馬車から降りたベルナールがウルスラを横抱きにして屋敷に入るとわっと歓声が上がり、そこかしこで祝いのシャンパンが開けられて女性や子供達が二人に花びらを投げた。

 ベルナールは笑顔で、ウルスラはいつも通りの無表情でそれに応え、祝いの席なのに何故花嫁は無表情なのかと事情を知らない来客らにほんの少しだけ困惑与えた。


「仲睦まじいと聞いていたけれど、そうでもないのかしら」

「でもあの方が笑わないのはいつもの事でしょう」

「政略結婚なのよね?」

「私はレインバード小伯爵様から猛烈なアプローチがあったと聞いたけれど……」

「まぁ! でもご実家で一度婚約破棄された方でしょう? 妹に婚約者をとられたとか……」

「その話、私も聞いたわ。そういえば妹の方は結婚式にもいなかったわね」


 隅でさわさわと囁かれる会話は、主役達までは届かない。

 例え聞こえる距離だったとしても二人はあえて耳に入れる事はしなかっただろう。

 この手の会話は得てして聞かずとも良いものであると知っているからだ。


「兄上! ご結婚おめでとうございます」

「ありがとう、セレス。次はお前が母上からせっつかれる番だな」


 そんな中、人混みを縫ってシャンパングラスを手に近寄って来た弟にベルナールが言えば、セレスタンは肩を竦めながらも悪戯っぽく笑った。


「そうならないようになるべく早く出国するつもりです。いくら母上でも他国にまで釣書を送ってくる事はないでしょう」

「元王宮医師のところで薬草栽培について学ぶのだったか」

「えぇ、医療技術よりもまず薬材となる薬草を国内に普及させる方法を模索したくて。今は薬が高額になりすぎです。薬というのは庶民にも手が出せるものでなければいけないとずっと考えていたんです。ついでに薬師の真似事などもやってみようと思っています」

「我が国でも学べるだろうに、と言うのは野暮だな。お前はきっと他にも色々学びたい事があるのだろう」

「えぇ、山ほどね」


 留学先の事を思っているのかどこか遠くを見る眼差しをしてセレスタンに、時間はかかってしまったが、ようやく弟の夢を叶えてやれるとベルナールは満足そうに微笑んで頷く。

 セレスタンが留学した後も必要な支援は惜しみなく行うと約束し、ベルナールは最後に兄の顔で言った。


「あまり無理はするなよ。お前は昔から突拍子もない事をして俺を驚かせるからな」

「その言葉、そっくり返すよ。いつだって無理や無茶をするのは兄さんだったじゃないか」

「言ったな」

「言うさ。せっかくの機会だからね」


 そうしてレインバードの兄弟は同時に小さく吹き出し、拳を軽くぶつけて互いの幸運を祈りあった。

 その後、来客達に祝いの酒だと何杯か飲まされながらベルナールが妻のもとへ戻ると、妻・ウルスラが実母であるアッシュフィールド伯爵夫人ディアーナから手紙を受け取っているところだった。

 見る者にどこか儚げな印象を与えるアッシュフィールド伯爵夫人は、ベルナールを見てにこりと微笑み、自分の用は済んだと言ってその場を離れた。


「ウルスラ、手紙を受け取っていたようだが」

「はい。妹からの手紙です」


 ウルスラの妹であるイザベラは、この結婚式の一ヶ月前に女児を出産したばかりだった。

 赤子は無事に産まれたものの、ウルスラ程に身体の強くないイザベラはまだ体調が完全に回復していない。

 領地から王都への移動は難しいので、今回の結婚式に参列する事が出来なかった。

 赤子の父親であり、ウルスラの元婚約者であるアランも、イザベラに付き添っている為この場にはいない。


「結婚式に参列出来なかったのがとても残念だと書いてあります」


 ベルナールからすれば複雑な思いを抱えてしまうような関係性だが、ウルスラは領地で妹の出産にも立ち会い、産まれたばかりの姪っ子をとても可愛がっていたようだ。

 ベルナールがセレスタンを弟として大切に思っているのと同じように、ウルスラは今も変わる事なくイザベラを大切に思っているのだ。


「私も、妹に婚礼衣装姿を見せてやれなかったのが残念です」


 ウルスラは結婚式までの期間を生まれ育った領地で過ごし、式を終えたらそのままレインバード領へと向かう為、しばらく妹には会えなくなる。

 それを思ってか、右手に手紙を持ち、左手で母から贈られたネックレスを撫でながらそっと目を伏せたウルスラを見ていると、ベルナールは妻の為に何かしてやりたくなってあれこれと考え、そしてぽろりと呟いた。


「では、落ち着いた頃合いでアッシュフィールド領でも結婚式を挙げよう。アッシュフィールド邸で、身内だけのものを」

「よろしいのですか?」

「勿論。せっかくの婚礼衣装なのだし、一度しか着ないのも勿体ない。それに君のその美しい姿をまた見られるのは私にとっても喜ばしい事だ」

「まぁ、ベルナール様ったらご冗談を……」


 断じて冗談ではないと返そうとしたベルナールだったが、父であるレインバード伯爵に呼ばれて口を閉じる。

 ウルスラも共に来るように言われ、二人が伯爵のもとへ向かうと、レインバード伯爵は妻アンジェレッタと寄り添ってベルナールとウルスラを迎えた。


「お前が無事身を固めてくれた事を本当に嬉しく思う」

「えぇ、こんなに素敵な方がレインバード家に嫁いでくれてわたくしも嬉しいわ」


 にこやかに話し始めた伯爵と伯爵夫人にウルスラは恐縮したように目を伏せていたが、ここでベルナールはふと何か違和感を覚えて僅かに怪訝な顔になった。

 言ってしまえば勘のようなものである。

 だが、ベルナールはこの手の勘がよく当たった。

 何か起こるのだろうかと思いながら話を聞いていると、レインバード伯爵はベルナールへと視線を向けた。


「これから、領地運営を本格的に任せる事になるだろう。それでだな、セレスタンからの評価も良い事だし、半年ほど様子を見て問題がなければお前に爵位を譲ろうと思う」

「は⁉︎」


 まだまだ現役で通るだろうレインバード伯爵の事実上の引退宣言である。

 続いた言葉にはベルナールのみならず、ウルスラも、周囲にいた者達も皆驚きを露わにした。


「父上、私はまだ伯爵位を継ぐには未熟で……」

「そんなもの、いつ継いだとしても皆最初は未熟なのだ。お前に必要なのは経験だ。それに、お前には支えてくれる素晴らしい妻がいるだろう。なぁ?」


 伯爵は狼狽するベルナールから、その傍らに立つウルスラに視線を向けた。

 ウルスラはパッと顔を上げてその視線に応えると、いつもと変わらぬ淡々とした口調でこっくりと頷く。


「お義父様。ベルナール様でしたらきっと大丈夫です。私も、ご期待にそえるよう誠心誠意お支え致します」


 欠片も不安や動揺を見せない無表情ゆえなのか、変わることの無い声音のせいか、それともその両方か、ウルスラがそう言うと妙に説得力があり、本当に大丈夫だと思えてくるから不思議である。

 狼狽えてしまった事を少しだけ恥じ、ベルナールは咳払いをしてから父へと向き直った。


「良き当主になれるよう、私もより一層努力します」

「うむ、励みなさい」


 固く握手を交わした父と息子に、息を潜めて様子を伺っていた周りの人々が歓声を上げた。

 その歓声の中、アンジェレッタはレースの扇子で口元を隠し、ひそりとウルスラの耳元で囁いた。


「ウルスラさん。ベルナールはなまじ体力がある分、無理を無理と思わず押し通すところがあるのよ。そういう時は妻として遠慮なく、横面引っ叩いてでも休ませて頂戴ね」


 純白の婚礼衣装を纏ったウルスラは、義母の言葉に無表情のまま心得たと頷き、そしてはっきりとした口調で答えた。


「はい。ベルナール様の妻として、レインバード伯爵家の伯爵夫人として、立派に務めを果たしてまいります」


 ──こうして、ウルスラ・アッシュフィールド伯爵令嬢は、数々の偶然から生まれた巡り合わせの末、ベルナール・レインバード伯爵子息と結婚し、彼が正式に爵位を継いでからはウルスラ・レインバード伯爵夫人となったのである。

 レインバード領に入ってからも彼女の性質は一つも損なわれる事なく、アンジェレッタから引き継いだレインバード邸の女主人としての仕事を着々とこなしていった。

 屋敷の使用人達は、いつも手際良く淡々と屋敷内のあれこれを差配するウルスラに敬意を払ってはいたが、社交的で表情豊かなアンジェレッタに慣れ過ぎていたせいか、ウルスラの無表情と抑揚の少ない淡々とした声音に緊張してしまい、馴染むまでしばらく時間が必要そうだった。




「──ウルスラ」

「はい、旦那様」


 レインバード邸のサロンで本を読んでいたウルスラは、夫に名を呼ばれてスッと顔を上げる。

 仕事の引き継ぎやら商会との顔合わせやらで最近忙しくしているベルナールは、外出用のジャケットを着たままウルスラの座る長椅子まで来ると彼女に一輪の薔薇を差し出した。


「これを君に」


 光の具合で白色にも見える淡い紫色のその薔薇を受け取ってウルスラが礼を言う。

 微笑むでも、言葉を重ねるでもなく、ただ一言ありがとうございますと返すだけの伯爵夫人に側に居た侍女の方が困惑してしまった。


「庭師がようやく満足いくものになったと言ったので一輪貰ってきたんだ。この薔薇に『ウルスラ・レインバード』もしくは『レディ・ウルスラ』と名付けたいんだがどうだろうか」

「まさか、あの『レディ・アンジェレッタ』のように新しく交配されたのですか」

「あぁ。前から依頼していたんだ。うちの庭師は研究熱心でね。君に一番似合うと思った色をうまく再現してくれた」

「さようでございましたか」


 受け取った薔薇に視線を落とし、ウルスラはしばらく考え込むと「旦那様のよろしいようになさってください」とだけ答えた。

 侍女はどこかハラハラした気持ちで二人のそんなやりとりを見て、やはり奥様はお家同士の結婚としてこの領地に嫁いで来ただけで、旦那様をあまり愛していないのかもしれないと思ったが、そうなるとにこやかな表情のベルナールがいっそ哀れに思えてくる。

 何せ、新しい伯爵夫人と来たら、嫁いで来てから一度も笑顔を見せないのだ。

 それが使用人相手ならいっそ貴族らしいと思えるのだが、夫であるベルナールの前でも笑っているところを見た者がいない。

 嫁いで来たばかりだというのに、屋敷の使用人どころか既に領民の間にすら、伯爵夫人は笑わないと噂が(ほとんど真実であるが)出回る程である。

 屋敷の仕事や内政管理については優秀と聞くので、仕事を補佐する為の契約結婚だったのだろうか。

 しかし、例えそうだったとしても自分達はこれまで通り新しい奥様に仕えるのみ。それが使用人の仕事である。

 侍女がそんな事を考えている間に、ベルナールは薔薇を見に行こうとウルスラを温室に誘っていた。

 淡白過ぎる会話の後にしては、二人連れ立って歩く姿はどこからどう見ても親密だ。

 だからこそ、侍女は余計困惑する。


(仲がお悪い訳ではないのよねぇ)


 そして侍女は供をする為、少し距離をとって二人に続いた。

 心配性の侍女は全く気が付いていなかったのだ。

 笑わない伯爵夫人の耳が真っ赤に染まっていた事も、それを見て伯爵が一層笑みを深めた事も。


 これからも、気付かない人々はウルスラについて、こう口にするのだろう。


 ──伯爵夫人は笑わない、と。

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